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第31回県連ふるさと巡り=旧都=歴史あるリオ日系団体との交流=第2回=サンタクルース=日本人に危害なら逮捕!=戦時中に異色の待遇与える

ニッケイ新聞 2009年3月19日付け

 サンタクルース日伯農村協会では昨年九月二十七日、約二百五十人が集まって創立七十周年が祝われた。オザスコ生まれの宮田聖二会長(70、二世)は「昔ここにおった人もサンパウロなどから駆けつけてくれた。とても盛大だったよ。今は記念誌を作ろうと調べているところ」という。
 『リオ州日本移民百年史』(〇八年、同編纂委員会、二百八頁)には、州最古の植民地は三二年に創立したカショエイラ植民地とあるので、ここは二番目のようだ。
 第一次入植者の保科静江さん(86、茨城)は、大統領が野菜の出来具合を視察にきた一九三九年九月二十三日を創立記念日としたことから、この日に式典を行ったと説明する。
 三八年にエスタード・ノーボ(新国家体制)という独裁政権が成立した。当時、大統領といえば絶対的権力者だ。
 ところが保科さんは、視察に来た大統領を間近にみたが、「普通のおじさんのようでした。全然怖くなかったですよ」と思い出す。
 一次入植者が到着した日をもって創立記念日とすることが多いが、旧都リオゆえに特別だ。その到着日は実は六月二十三日だった。
 当時、十五歳だった保科さんは「サンジョアンの前日でしょ。花火がバンバン上がってたのを憶えてます。モジにいた時は、黒人なんて見たことなかったけど、ここは黒人ばっかりでびっくりした。でもよくしてくれましたよ」と微笑む。
 「トマトだって細長いのしかなかったし、このヘンじゃ、みんな食べ方も知らなかった」。文字通り一からの出発だった。
 渡辺一喜さんは、第二次大戦開始後も「汽車でリオまで一日に何千箱ものトマトを出荷したよ。それでサンタクルース種のトマトが生まれた」という。
 保科家も一晩で二百五十箱のトマトを出荷したこともあったという。「サンタクルース種は一喜さんの父、一(はじめ)さんが作り、後に全伯の日系農家に広まった」と証言するように、ここはかつてトマトで有名だった。
 『ブラジル日本移民八十年史』(同編纂委員会、一九九一年)には、「一九四〇年、コチア組合はリオ州サンタクルース植民地に入植した十数家族の組合員にこの種子を送り、集団的に栽培・出荷させたところ、リオ市場で品質が良好という声価を得て、市場の仲買人にトマト・サンタクルースと呼ばれるようになり、それが今日に引き継がれて『サンタクルース種』となった。そのあと現在に至るまで、各地の熱心な生産者、産業組合、種子業者らが、このサンタクルースから選抜抜種しているものが多く、有名なものだけで二十数品種に及ぶ」(二百九十八頁)との記述がある。
 保科さんは「ヴァルガス大統領のおかげで、戦争中もサンタクルースの日本人には、暴力とかまったくなかった」という。「唯一の迫害らしい迫害といえば、戦争中に日本語の本を取り上げられて焼かれたこと。それだけ」と振り返る。
 公の場で日語をしゃべっただけで連行されたサンパウロ市とは大違いだ。
 『リオ州百年史』によれば、当時イタグアイの警察は「『万が一危害を加える者が居たらすぐに連絡しなさい、徹底して逮捕するから。だから、安心してたくさん野菜を作って、ブラジルのために食を供給したまえ』と、敵性国人である日本人にたいして、本末転倒とも言える待遇を与えていた」(二百十七頁)との体験談が書かれている。
 大統領肝いり植民地ゆえに、戦争中の待遇も他とはまったく違うものだったようだ。(つづく、深沢正雪記者)

写真=左側の2人目から順に渡辺三吉さん、保科静江さん、渡辺一喜さん