ニッケイ新聞 2009年3月20日付け
「あの炊き込みご飯を作ったのは保科さんだと聞いてきました。あの味は、三重県ではないですか。私が作るのと同じ味がします」
会館の裏方で、第一次入植者の保科静江さんを取材していると、一行の多川富美子さん(72、三重)が息せき切ってやってきて、驚いた様子でそう尋ねた。
交流会の昼食では、サンタクルース日伯農村協会婦人部の美味しい手料理がふるまわれ、みなが舌鼓をうっていた時だ。
すると保科さんは、最初きょとんとした様子だったが、「ああ、私の母が三重県です。あの味は母から教わって、娘に伝えたものです」と答えた。
合点がいった多川さんは感激した面持ちで、「郷土の味がしっかり伝わっている」といって、固く保科さんの手を握った。多川さんのふるさと巡り参加回数は二番目、二十六回を数える。こんな出会いがあるから続くのだろう。
保科さんは家族と共に二歳半で渡伯、十五歳で同植民地に入植した。ここで結婚し、子供を育てた。
その間、サンタクルース植民地の主作物も変遷した。戦後はバナナ栽培が盛んになったが、毎年三月ごろに水害に見舞われたことから、今ではココ椰子やアイピン(マンジョッカ)などに変わってきている。
初入植から数年間に三十家族が入ったが、今も残っているのは十四~十五家族だという。同農村協会には七十会員がいるが、中心になって活動しているのは十家族ぐらいだという。
保科さんは「みんな、子供を最高学府にやったのが誇り。子供たちは活躍している。苦労はしたけど、今は幸せです」と胸を張る。
もう一人の第一次入植者の渡辺一喜さんは、最初に仏式法要をしたイタグアイの文化クラブの会長でもある。そちらは二年遅れた一九四〇年に開発が始まった。
渡辺さんによれば、勝ち負けのゴタゴタを避けてサンパウロから、リオの町中で商売をやっていて立ち退き命令を受けた人なども集まり、戦中戦後合わせて百家族ぐらいが入植した。
現在イタグアイには三百五十日系家族が住んでいるが一世は十人ほどしかおらず、三百人はデカセギにいっている。文化クラブの活動はゲートボールのみになってしまい、同会館はブラジル人に貸している。
二〇〇〇年には第十八回全伯GB親善大会を開催した。州唯一の公式野球場を有する(『リオ州百年史』二百九頁)が、一行が訪れた時カンポは草ぼうぼうで、栄枯盛衰の理をおもわせる光景だった。
一九四〇年頃、近隣のピラネーマにも日本人が三十家族入ったという。『リオ州百年史』には、「一九九〇年代初頭までブラジル一番のオクラ生産地となった」とある。この三つの植民地が一塊を形成する。
交流会の最後に、恒例の「ふるさと」を全員で合唱、地元の人と抱き合って別れを惜しむ姿も見られた。一行はバスに戻り、一路、リオ市街へ向かった。
第十九回からずっと参加しているという有馬照江さん(82、長野)は「ふるさと巡りは普通の観光旅行とは違って、とても興味深いものが見られる」と語り、熱心に地元の人と交流していた。
参加者の新川一男さん(74、広島)も、「独裁政権当時のヴァルガス大統領が、コチアに頼んで日本人に野菜を作らせたという話には感動した。コロニアの秘話だよ」と感慨深げに感想をのべた。(つづく、深沢正雪記者)
写真=保科静江さん