ニッケイ新聞 2009年3月21日付け
秋の到来である。海岸山脈のクァレズマも色濃くなり、ミニョコンの路傍に今を盛りと咲き誇る紫紺野牡丹も美しい。今年の晩夏は暑熱が険しく困憊の日々が多かったけれども、ここ数日の朝夕は涼しく初秋の楽しみを噛みしめている。「笹竹の雀秋しる動きかな」は江戸の杉風であり、南銀の幾別春は「仏蘭西の踊り子が来てリオの秋」と一句を捻る▼あの紫の花は「失恋」を意味すると教わったが、本当かどうかは知らない。恐らくー昔の人が「もののあわれは秋こそまされ」と言ったのと紫の色が寂しさなのでこれを重ね合わせての造語かもしれないが、この先輩移民の説明は若かった遯生にもよく解り、現在も信じている。日本人は秋色に衰退の季節を感じ取るし、老移民が苦心惨憺しての新しい語と見ても面白い▼蒼穹の空も爽やかで素晴らしい。小さな白雲が集まった鰯雲は澄み切った秋空を彩り、生きとし生けるものに力が溢れる。米秋や麦秋とも言い梨や柿・林檎がたわたわと実り枝豆も店頭に並ぶ。「秋高くして塞馬肥ゆ」で秋天の五穀豊穣は米や麦などの穀物を豊かに恵んで呉れる▼秋の夜は長い。サンパウロのような巨大都市では俳人・許六の「長き夜やいろいろに聞く虫の声」は難しく、ついテレビ専門になりがちながらときには本に親しむのもいい。熟読すれば、難解な書物も理解できるとする「読書三到」には遠いにしても、活字を追っての「読書尚友」は夜長にこそふさわしい。静寂な涼気に包まれた深夜に爽籟の悦楽に酔い痴れながらの耽読もまた格別ではあるまいか。 (遯)