ニッケイ新聞 2009年3月24日付け
「いやあ、ひょっこり会うもんですね、びっくりしました」。リオ在住三十年になる斉藤光さん(71、群馬)は以前、一九六〇年代にミナス州イパチンガでウジミナス創立時に一緒に働いていた仲間とも、ふるさと巡り一行との交流会で偶然再会した。さらに五七年の同船者の知人とも二十年ぶりに再会し、驚いた様子でそう語った。
リオ日系協会の交流会では、懐旧談に華を咲かせる姿があちこちでみられた。お互いに予想以上に懐かしい人や縁者がいたようだ。
市内で書店を経営していた太田郁子さん(82、東京)もその一人だ。ふるさと巡り参加経験者であり、「私が一行に加わった時もあちこちで歓迎され、感激しました。今回は、歓迎する側の立場でお迎えしようと張り切ってきました」と微笑む。
ふるさと巡り三十一回中の二十七回も参加し、最多回数を誇るソロカバ市在住の和田一男さん(84、二世)は、太田さんに持参した昔のふるさと巡りの写真を見せながら、懐かしそうに話し込んでいた。
一昨年、ポ語版『移民の父 上塚周平』(能美尾透著、ニッケイ新聞)を出版した時に、妻の園尾ローザ登喜子さんが翻訳したが上梓前に亡くなり、その代わりに出版記念会でサインをしていた夫の彬さん(70、福岡)も顔を出した。リオ市内で日本語学校を経営している。「面白いですね。みなさんと話していると、ブラジルより日本の終戦当時の話になる。やっぱり戦争は忘れられないんですね」。
サンパウロ州サンビセンテ市で金曜だけ営業する風変わりなレストランを十七年間やっている一人、有坂艶子さん(73、二世)は「偶然、十五年ぐらい会っていなかった編み物の藤本先生に会えて驚いた」という。藤本さんは以前、サンビセンテで編み物教室をし、有坂さんも習っていたという。
午後一時半頃からリオ日系太鼓のショーが始まった。〇三年から活動をはじめ、昨年のサンパウロ市百周年式典の千人太鼓にも参加した。演奏者の七~八割が非日系人だ。
最後に、同協会役員がステージに上がって「北国の春」を熱唱してみせ、それに応えた県連一行は恒例の「ふるさと」を全員で歌い、惜しみながら会場を後にした。
参加七回目の原ルシアさん(74、二世)は「みんなとても良くしてくれた」と満足そうな笑みを浮かべた。
〇四年までサンパウロ日伯援護協会の事務局長を務め、現在は専任理事の山下忠男さん(75、京都)夫妻は初参加だ。
一九五三年に渡伯し、同年末から一年間、この会館のある地区周辺に住んでいたという。
「昔はほとんど日本人がいなかった。ラランジェイラスのペンソン一力とか懐かしい。そのおかげでポ語を覚え、後に援協で役にたったんですよ」。青春時代まっさかりの十九歳、ブラジル生活の原点を思いだしていたようだった。(つづく、深沢正雪記者)
写真=「北国の春」を熱唱するリオ日系のみなさん(右から2番目が鹿田連盟会長、右端が松浦ミノル協会会長)