ニッケイ新聞 2009年4月1日付け
なぎなたに関心の深い小林成十さん(しげと、74、二世)が『ブラジルにおける薙刀の歴史』を執筆し、編集部に寄せた。これは今までまとまった記録が殆どなかった武道分野であり、それを補う労作といえる。小林さん自身が、戦前に日本人社会の中心の一つだったサンパウロ市ガルボン・ブエノ街にサンパウロ州義塾を作った小林美登利(みどり)さんの三男にあたる。同義塾では剣道も熱心に教えられていたことも有名で、そこで薫陶をうけた成十さんならではの武道史となっている。(編集部)
序文
現在ブラジルでは日本伝統の武術、柔道、剣道、空手、合気道等がブラジル人の間でも盛んに実践されていることは大変喜ばしいことである。
しかし、時々耳にすることは西洋人には本当の武道、武士道の精神がわからないであろうという人もいるが、皆々がそうではないと思う。
長い歴史の中に生まれた禅宗や儒教に裏づく日本独得の論理(忠孝、尚武、信義、節操、廉恥、礼儀等を重んじる)であるが、歴史、習慣、宗教等の違う西洋人に必ずしもわからない論理とは言い難いであろう。
その反面どれだけのブラジル日系人がその論理を本当にわかっているであろうか。上記武術のほかにまだ杖術、棒術、体術など、小人数であるがこれらもブラジルで練習、実践されている。
□薙刀の歴史□
薙刀の歴史は古く十一世紀末頃に始まり室町中期まで盛んに用いられた。薙刀の名前の由縁は初めのころは奈木奈多、または長刀の文字を使用していたが、南北朝時代(十四世紀)、五尺、七尺という長い刀が用いられるようになったので、それらと区別する意味で、人馬を薙ぎ払う意味から薙刀の文字を用いるようになったといわれる。
なお薙刀の種類としては大薙刀、小薙刀、両刃薙刀、小反刀薙刀、鉈薙刀、筑紫薙刀、無爪鉈薙刀など。また類似の武器に長巻きがある。
男子用の薙刀を静御前にちなんで静型、女子用の薙刀を巴御前にちなんで巴型という。
薙刀について伝説的に有名な話は、鎌倉初期の僧で比叡山西塔で修業、のち源義経に従って数多の合戦に参加し、武名を挙げた武蔵坊弁慶だ。大薙刀の名手として天下無敵、幾度か義経の危難を救ったことは有名だ。
また弁慶が戦いで武器として常に身に着けていたという七つの道具も有名(鋸、槌、斧、大薙刀、鎌、熊手と太刀)。彼は奥州平泉の合戦で身体に何十本もの矢を受け、立ち往生を遂げたといわれる。
薙刀は徒歩による打物合戦の武器であるから僧兵などの好みの兵器とされた。戦国時代になると槍の利用が多くなり、さらに鉄砲の伝来などで戦闘様式が集団的となり、一騎打ちの接戦にのみ有利であった薙刀は次第に衰えた。江戸時代に入ってだんだん刀身が短くなり、主として婦人の護身用として用いられ、武家の女子は必ず心得として練習、婚嫁の際も薙刀を持参するようになった。
この時代には薙刀術に多くの流派ができ、それぞれ基本の型が考案された。その主な流派に、天道流、新当流(穴沢流)、先意流、正木流、常山一刀流、月山流、戸田流、根岸流、米田流、武甲流、留田流、柳剛流、神陰流、直元流、直心影流などがあり、その他、巴流、静流、静貫流、富樫法神流、三和流、新影流などがある。しかし、この中で多くの流派の後継者はなく、すでに姿を消したといわれている。
明治以後、男子の剣道とともに、女子の武道として発展し、昭和になると軍国主義の時代になり、婦徳の涵養という目的のもとに薙刀術の形を総合して薙刀体操が考案された。
終戦とともに禁止され、衰退の一途をたどっていたが、その後識者の間に新しく研究が進められ、一九五五年五月京都において全日本なぎなた連盟が結成され、薙刀が復活し、第一回全日本なぎなた選手権大会が一九五五年に開催された。
後、一九九〇年には国際なぎなた連盟が結成され、またブラジルなぎなた協会が設立されたのは一九九三年である。この国際なぎなた連盟には現在日本、ブラジルを含め、十四カ国が加盟している。なお薙刀の型は戦後統一された。
一九九五年国際なぎなた連盟との共催で、第一回国際なぎなた選手権大会が東京都で開かれ、八カ国が参加した。 (つづく)