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ブラジル薙刀の歴史=小林成十=第2回

ニッケイ新聞 2009年4月2日付け

 本題に入って、戦前、戦後のブラジルにおける薙刀活動をすこし書いてみたい。まとまった文献が見つからず、また資料が乏しいがため、それに多くの関係者の方々がすでに他界され、戦前、戦後、間もないころの薙刀の歴史が思うように書けないのが残念だ。誤謬は免れないが、集め得た資料を基本に書いたこの記事が、ブラジルにおける日本武道の一派、薙刀の歴史に少しでも寄与できれば幸いと思う。

戦前の歴史(1975年前半まで)

■古本静 師範■

 ブラジルの薙刀の歴史を調べ、戦前、戦後を通じて当国で薙刀の普及に努めた第一人者として古本静(ふるもと・しず)師範の名を挙げたい。
 古本静師範は明治二十六年八月十日(一八九三年)、父古本栄吉、母マツの間で一人娘として山口県下関で生を受けた。 両親は元武家出身であったため武道を重んじ、彼女は七歳より薙刀を父と彼の有志に学び、後に、遠藤瀧子師範に師事し神陰流を修め、免許皆伝を明治四十二年六月、十六歳未満で取得。
 遠藤師範の指導は、彼女がまだあどけない少女であるなしにかかわらず厳しく、寒い冬の練習などには午前三時に起床、練習が始まり、また雪の中を師範の後について歩き、少しでも気をぬくと木刀が彼女の頭に飛んできたそうである。
 逸話として、静師範は日露戦争で二子を亡くした乃木希典陸軍大将(のち学習院院長)の養女として望まれるも実現するには至らなかった。
 しかし、乃木家とは近しかったため女学校時代より大将から多くの感化を受け、格言は「質素に基づき、人助けをせよ」であった。
 乃木大将は明治天皇の大葬の日、静子夫人とともに殉死したことはよく知られるところだ(一九一二年)。
 また彼女は十代にして明治時代最後の薙刀神陰流三名士の一人として知られ、これも乃木大将に気に入られ養女として望まれた原因の一つであったかもしれない。
 静師範は二十二歳のとき婿養子として三十三歳の軍人井上鶴吉と縁組む。後すぐ夫は台湾に任命され同島で十年間生活。鶴吉はその間タイペイにて警部部長を務め、静夫人との間に四子に恵まれたが、一子を亡くし、日本帰国後、新たに二子に恵まれたがまた一子を亡くす。
 鶴吉は戦前ブラジルに移住するとき、軍から除隊し一介の農業者として家族六人(子息は隆寿、明子、信寿、和子)をつれ昭和十年四月三十日(一九三五年)モンテビデオ丸で日本を発ち、ブラジル、サントス港へ六月二十九日に上陸。時、古本静師範四十二歳。
 サントス港着後、一家はモジアナ線サンタルシア、コーヒー園に入植、一年間政府命令で無料勤めをし、その後バウルー市に移転、日本人構成植民地に入植、四年間の綿作に励んだ。
 鶴吉氏は昭和四十一年(一九六六年)、八十五歳で天寿を完うした。
 静師範はバウルー日本人構成植民地入植記念にジュース・キング社の笠井貞雄剣道二段と型の演武と模範試合を行った、(一九三五年ごろ)。この型の演武と模範試合はブラジルにおける薙刀最初の披露と言える。 (づづく)

写真=1935年ごろ。バウルー日本人構成植民地の入植記念で、清涼飲料会社のジュース・キング社・笠井貞雄2段(右)と型の演舞と模範試合を行った時のもの。左が古本先生。