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ブラジル薙刀の歴史=小林成十=第3回

ニッケイ新聞 2009年4月3日付け

 綿作後、古本一家はサンパウロ市に移転、当時はまだまだ未開拓地であったモルンビー区、現在のサンパウロ州政府官邸バンデイランテス宮殿のある土地で養鶏を始めた。
 出聖後、一九四〇年から静師範は赤間女学院で日語教師として勤め、傍ら薙刀の指導を始め、また皇紀二千六百年祭には十名のお弟子さんたちと祭典に参加し、終戦前後まで指導した。後、同女学院を退職。
 戦争中日本人がサンパウロ市から立退きを命ぜられたように古本一家も立退きを命ぜられ、サントアンドレー市に移転。当時日語教育は禁止されていたが、秘理に家庭教師として日語を教え続け、また薙刀の指導も続けた。
 一九五〇年、戦後世間も落ち着きを取り戻し始め、静先生も臆することなく同市で幼少年数名に日語、薙刀を指導した。そのなかに、音楽家で指揮者の山川健一先生の夫人、ピアニスタの純子先生も薙刀の練習に励んでおられた。
 一九五二年八月にパカエンブー競技場で開催された日伯産業振興会主催の全伯柔剣道大会に参加、純子先生は古本師範指導のもと妹明子さんと共に薙刀の演武を行った。
 一九五〇年前半再びサンパウロ市に戻り、一九五七年に末娘和子の日語許可書をもとに、ガルボン・ブエノ街二九〇番地に公認日語学校プリマベイラ校を開設、日語教育を続けた。
 薙刀にも従来通り力を入れ、正確な年代は特定できないが、剣道大会で当時五段錬士であった谷口又夫先生と異種試合を行い、また、一九六三年四月十四日、当時のブラジル剣道三教士が瑞穂植民地で催した追悼剣道祭にも参加されている。
 一九六五年四月にはパカエンブー競技場で二十名のお弟子さんたちの薙刀演舞を披露。
 静先生は一九六六年十月三十日、開校九周年とブラジルにおける日語教員生活三十年を記念して文化協会センター大サロンにおいて、児童学芸会ならびに敬老会を開催した。
 一九七〇年七月十八日、ピラチニンガ体育館で行われた第十二回全伯剣道大会でも、師範は薙刀の型を披露した。
 古本静先生は在伯四十年の間、何十人という多くの薙刀門下生を指導された。また彼女は戦前から剣道の泰斗菊池英二師範八段教士とも親交があった。
 古本静師範はサンパウロ市で一九七七年十月二十三日、八十四歳で亡くなられるまで一時も薙刀のことを忘れず、その普及に努め、神陰流一心の人生であった。
 最後に静先生が八十三才己に詠まれた歌を記したい。
 「落花むなしきを知る 流水心をふして おのずから すめる心は たらちねの」
 余談だが、剣道界には戦前から移民と共に多くの実践者、有段者が来伯した。その中には、明治から昭和にかけて剣道界の双璧とも云われた中山博道師範と高野佐三郎師範の高弟もおり、同じく柔道界でも幾多の高段者が来伯し指導にあたり、多くの優秀な後継者を育てた。
 この中に明治維新の指導者として知られる西郷隆盛の、孫に当る西郷隆治も大正時代にブラジルに来て一時柔道を教えていたことを知っている者が幾人居るであろうか。
 ただし、残念ながら薙刀界では同等ならず、古本静先生のみ薙刀普及に孤軍奮闘されたが、不幸にして先生は後継者を育てる事無くして他界され、それとともにブラジルにおける薙刀神陰流の歴史は閉じた。   (つづく)

写真=1950年、サントアンドレー市で撮影。左から古本静(ふるもと・しず、58歳)、順不同で一色連(いっしき・れん)、一色友子、明子さん。一番右が一色純子さん(山川純子さん=指揮者の山川健一さんの妻)