ニッケイ新聞 2009年4月7日付け
二〇〇六年八月、二〇〇七年九月のベルギーでの大会に備えて、日本から三重県なぎなた連盟事務局長の安井みどり師範と、米国なぎなた連盟会長の田中ミヤ子師範が来伯され、短期間ながらブラジルの薙刀指導と強化に協力された。
第一回国際なぎなた選手権大会は一九九五年東京で開催され、二回目はフランス・パリ(一九九九年)、三回目は米国サンホセ(二〇〇三年)で行われ、ブラジルは第一回から参加したがサンホセにはSARS病流行のため不参加。
第四回は二〇〇七年九月一日からベルギーのブリュッセルでなぎなた世界選手権が開催され、大会に十四カ国、日本、ブラジル、ベルギー、米国、英国、フランス、ドイツ、豪州、カナダ、オランダ、イタリア、スエーデン、チェコ、ニュージーランドが参加、百二十名の選手が出場。優勝は日本、二位ベルギー、三位米国。また親善大会にはウクライナ国も参加した。
ブラジルはこの大会に会長、森田先生の引率で六人の選手が参加、一同よく健闘したが入賞はならなかった。しかし親善大会では勝つ試合もあり、選手たちもこの国際なぎなた大会参加には大きな意義があり、彼らのよい経験になった。
また、今回の経験、昇段は四年後日本で開催される第五回国際なぎなた選手権大会に対して大きな励みになり、次期大会でメダルを取れるように皆ますます頑張って行きたいという意欲につながった。
なお大会後三日間のセミナーがあり、後、日本なぎなた連盟派遣八名の師範の厳しい審査のもとで昇段試験が行われ、大会に参加したブラジル選手六名(三名は非日系人)全員が合格、初段から二段へ二名、一級四名が初段への昇段をはたした。また森田先生も国際連盟審判員試験に初挑戦、栄えある合格、ブラジル初の国際なぎなた連盟の審判員に任命された。
話は少し前後するが、第一回国際選手権大会が一九九五年東京で開催された翌年、一九九六年サンパウロ市パカエンブー体育館で第四回親善大会が四カ国、日本、アメリカ、ニュージランド、ブラジルの間で行われ、選手三十名が参加した。「これによってなぎなたがブラジルに着実に根付いていったようです」と森田先生は話された。
この親善大会は四年ごとに行われる世界選手権大会の間に各国で行われ、なぎなたの普及、向上につながっている。
また、二〇〇八年十一月六日より十日まで、財団法人日本武道館の移民百周年および日伯交流年事業として、日本武道普及・振興の為、総勢七三名の武道団(柔道、剣道、弓道、合気道、その他)が来伯した。
そのなかに、なぎなたも六名(畠瀬美佐子範士、加藤友相錬士、嶋田信子五段、池見敬子五段、池西洋子五段、安喰愛三段)が参加され、第一日目の七日には文協大講堂で講演会とデモンストレーションを行い、八日には各武道分かれてそれぞれ稽古、なぎなたは基本稽古、試合練習、審査も行われた。
九日にはイビラプエラ体育館でデモンストレーションがあり、剣道、銃剣道、なぎなたの異種試合も行われ、観客の注目を集めその後のワークショップには多数のブラジル人も参加、大いに賑わった。
現在のところブラジルで薙刀の実践者はけっして多くないが、森田先生の良き指導のもとに選手たちはめきめき腕をあげている。近い将来必ずや世界選手権大会でその成果を見せることであろう。先生の希望であるブラジルにおける薙刀普及、広めの願いは必ず実現すること、若き良き後継者の育つことを信じたい。
会長森田先生のもとで協会役員、選手団一同今後益々のご活躍、ご健康、ブラジルなぎなた協会の発展を心から祈りたい。
■あとがき■
最後に、もし読者の中に、旧門下生の中にこの一文を読み関心をもたれ、戦前、戦後間もないころの古本静先生及びブラジル薙刀についての資料、逸話、写真、思い出、年代等をお持ちの方から一報をいただければ幸いと思う。
なおこの記事を書くに当たり多くの方々のお世話になったが、特にお世話になった古本静師範の末娘古本和子さんは、この静先生の資料提供一週間後に亡くなられたことは痛恨の至りであり、この一文を彼女の御霊前に捧げる。
以上が今回集まった資料をまとめたものであるが関係者、読者の協力でブラジル薙刀の歴史がより充実したものになればと願うものである。
【参考資料、協力者(敬称略)】日本武道大系、全日本なぎなた連盟サイト、古本和子(故)、古本信太郎、森田泰江、河野八千代、小林眞登ルイス・オタヴィオ、瑞穂村60年の歩み、サンパウロ新聞、ニッケイ新聞、赤間学院創立五十年史。