ニッケイ新聞 2009年4月7日付け
「人間守るものがあれば、恐くも淋しくもないものですよ」――。勝ち負け抗争の実行犯だったマリリア在住の日高徳一さん(82、宮崎)が自首後に収監、尋問を受けていたサンパウロ市ルス駅近くの元DOPS(政治社会警察)に先月、六十三年の時を経て訪れ、改めて当時の心境を語った。七歳で移住、十九歳で終戦を迎えた日高さんが命をかけて守ろうとしたもの、それは日本と皇室の尊厳だった。
「あっ、あそこだ。変わってないねえ」。
地下鉄ルス駅を出て、周囲を見回した日高さんは、すぐさま赤レンガの建物を認め、足早に歩き出した。
思想犯や政治犯を収監していた元DOPSの建物が現在、レジスタンス記念館として一般公開されていることを本紙記事で知り、出聖した。
小柄だが、しっかりと伸びた背筋は実直な性格を表しているようだ。日焼けした表情に刻まれた皺。当時を語る口調に淀みはない。
DOPS前の通り(Rua General Couto de Magalhaes)で蘇った記憶も鮮やかだ。
「そうそう、この近くで顔写真を撮られたよ。DOPSに撮影する場所がなかったんだろうね。逃げ出さないようにシントゥロン(ベルト)を外されたけど、手錠なんかは使わなかったよ。ブラジルはのん気だから」。
容疑者を収監する部屋は一階に並んでおり、一部屋ずつ覗き込む。内部に丸い太い柱がある部屋を見て、「この部屋ですよ。懐かしいなあ」と足を踏み入れ、高い天井を見上げる。
部屋は十畳ほどの大きさ。奥に便所があり、鉄格子入りの窓からは日が差すためか、暗い雰囲気はない。
鉄製の思い扉には、配膳用の小窓がある。「ここからカフェをもらってたよ」。
見学者のため、収監者の生活を表現するためだろう、柱と窓の鉄格子の間に渡された紐に洗濯物が掛けられている。
「これはなかったね。柱に直接、サルマタを貼り付けて乾かしていたものですよ。寝るとき? 布団なんかあったかなあ。パペル・ジェニコ(トイレットペーパー)が枕ですよ」と笑う。
数カ所を転々と移送したためか、どのくらいの期間、収監されていたのか記憶にはない。
しかし、「ブラジルはすぐにアミーゴになるから、看守とも仲良くなってね。キャベツを買ってきてもらって、塩漬け作って食べたり。口裏を合わせないように日本人とは行き会わないから、ガイジンとばかり話してた。だから、僕のポルトゲースはカデイア(刑務所)仕込みよ」というから、短期間ではなかったろう。
ただ、日高さんの口ぶりからは、悲愴感はほとんど感じられない。
「僕らは官憲に手向かったわけでもブラジルに対してやったわけでもない。自首して罪を認めているわけだから、毎晩取り調べは受けたけど、拷問はされなかった。可哀想なのは臣道聯盟の会員というだけで、逮捕されて、ご真影を踏まされたりした人よ。『そんなことするくらいなら死ぬ』って自殺しようとした人もいるからね」
「死刑になってもいいと思うくらい真剣だったからね。恐くも恐ろしくもなかったよ。今の人からしたら、馬鹿の骨頂かも知れないけど…」
日高さんの体内時計は、〃あの時〃に逆回転を始めた――。(つづく、堀江剛史記者)
写真=収監されていた一室で当時を回顧する日高徳一さん