ニッケイ新聞 2009年4月14日付け
この頃の南米における日本人の記録は、驚くべき事に亜国の青年一人だけではない。ペルーに二十人もが住んでいた記録があるという。
在亜日系団体連合会(FANA)のサイト(http://fananikkei.exblog.jp/6461148/)の『同日本人移民史』要約には、「当時、アルゼンチン領土まで含むペルー副王領において、フランシスコ・ハポンだけでなく、十七世紀初頭、二十人ほどの〃日本人種土人〃が新世界に連れて来られ、ペルーのリマに〃奴隷〃として住んでいた」という記述もある。
一六一四年に行われたリマ市人口調査の報告に二十人の日本人の居住記録があるのだという。
このことは、アルゼンチンの青年のケースが例外的な存在ではなく、むしろ当時、あちこちにいたことを示唆するものと言える。
スペイン人が植民地を作った場所では、日本人奴隷は一般的に使われていた可能性すらある。
一四九四年にローマ法王の裁定により、ポルトガルとスペインはトリデシリャス条約を結び、カーボ・ヴェルデ群島の西方二千二百二十キロ地点から東をポルトガル領にし、西側をスペインと定めた。そのためスペインはパナマ両岸に港を作り、中米から太平洋岸を南下した。
南米では、スペインの遠征軍が一五三三年にペルーのインカ帝国を蹂躙し、植民地政策をとって南下を始めていた。一五七二年、最後のインカ帝国皇帝トゥパク・アマルーが処刑され、栄華を誇った文明は根こそぎ破壊された。
スペイン人はさらに南下して現在のボリビア、チリ、アルゼンチンの地域を次々に征服した。その流れの中で、アンデス山脈を越えた彼らは、コルドバを一五七三年に拓いた。フランシコス・ハポンが奴隷として売られた一五九六年の、わずか二十三年前だ。
そんな開拓地にまで日本人が連れてこられていたということは、一五四三年に開かれた副王領(スペイン王国の代理行政機関)であるリマに、一六一四年当時、二十人いたことは何の不思議もない。
両国はライバルとはいえ、隣国であり、商業的つながりは強い。とくに南米は両国が独占していたから奴隷の売買も珍しくなかったに違いない。
亜国の日本人青年がポルトガル商人の手によって連れてこられたなら、同じようにブラジルに来ていても何の不思議もない。むしろ、ポルトガルの植民地ブラジルにより多くいたと考える方が自然だろう。
ポ語版Wikipediaの「Escravidao」項によれば、一六世紀前半から北東部のサトウキビ生産のために、アフリカから黒人奴隷が連れてこられた。主な受け入れ港はリオ、バイーア、レシフェ、サンルイスだった。中でもバイーアは奴隷市場の中心であった。
その地域の古文書館のような場所を探せば、もしかすれば日本人奴隷の存在を示すような文書が見つかるかも知れない。
ただし、デオドロ臨時政府のルイ・バルボーザ蔵相が共和制宣言の翌年、一八九〇年十二月四日付けの法令で、一切の奴隷記録を義務的に集めて消却したため、実態が把握できない。
『ブラジル史』(アンドウ・ゼンパチ著、一九八三年、岩波書店)は「五百万を超えていない」という専門家の調査結果を示した上で、「黒人奴隷のブラジルへの輸入数がこのように不確実であるのは、(中略)奴隷がブラジル史に『黒い汚点』をつけたものであるという理由で、奴隷に関する一切の公文書を焼き捨てさせたためである」(五十四頁)と説明する。
当時はイエズス会の神父たちも奴隷を買い取り(アルゼンチンの日本人も奴隷として買ったのは神父だった)、自分たちが経営する農場や牧場の仕事に使っていた。前述の地域で一五〇〇年代から続く古い教会があれば、そこにも何かの史料があるかもしれない。
もしかしたら、一五五四年にイエズス会がサンパウロに上陸し、パチオ・ド・コレジオを作った時、実は日本人奴隷がいたかもしれない――などと想像するのも面白いが、研究者に尋ねても、残念なことに、今のところなんの確証もないようだ。ポルトガルのリスボンなどの古文書館にもなにかあるかもしれない。研究者諸氏の奮闘に期待したいところだ。(つづく、深沢正雪記者)