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日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(4)=中国、韓国人奴隷も?=イエズス会と東方貿易

ニッケイ新聞 2009年4月15日付け

 十六世紀当時、世界地図をポルトガル中心に見た時、日本とブラジルには奇妙な類似点がある。両国は世界の両端だった。世界の西端がブラジル、東端が日本だった。
 堕落したカトリックを救済・再建する目的で一五三四年に設立されたイエズス会は、世界の異端者と戦うための軍隊型組織を持つ布教の〃先兵〃として、ポルトガルの支援を受けて常に最果ての地に向かった。その目標の東端が日本であり、西端がブラジルだった。
 一五四九年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着したのと同じ年に、ブラジルには総督府制がしかれ、初代総督トメ・デ・ソウザが赴任しているが、初代教区長として同行したのがイエズス会のマノエル・ダ・ノブレガだ。
 今では世界最大のカトリック人口を誇るブラジルと、人口の一%未満しかキリスト教徒のいない日本は、布教開始は同期生だった。
 中隅さんは『入門』で「日本とブラジルは、カトリック布教ということでは、同時に出発したということになる。とはいえ、イエズス会の布教にかける情熱、使命感ということでは、圧倒的に日本に比重がかかっていた。大航海時代の海外進出は、貿易と布教がセットになっているのだが、貿易でも布教でも、未開のブラジルと日本では比較にならなかった」(百六十六頁)と書く。
 大航海時代に「無敵艦隊」を誇り、世界を制覇したスペインと、最大のライバルだったカトリック兄弟国ポルトガル。競い合って世界の果てであるアジア、アフリカ、南米への探検隊や宣教師を派遣した時代だった。
 十四世紀半ばのペスト大流行で欧州人口の三分の一が亡くなり、英仏は百年戦争(一三三七~一四五一年)で疲弊しきっていたのを尻目に、ポルトガルはインド航路発見により、アジアの香料貿易を独占した。
 スペイン王室の支援でコロンブスが北米大陸に到来したのは一四九二年。一五〇〇年にはポルトガル人貴族のペドロ・アルバレス・カブラルが、インドに行く途中でブラジルを見つけたが、あくまで視線は利益の多い東方貿易に向いていた。
 ポルトガルは一五〇三年にインド東岸カルカッタを占領、一五一〇年にゴアを、一五一一年マラッカを支配下においた。これら拠点から、香料、絹、茶、象牙、宝石などの莫大な富が本国王室にもたらされた。
 一五一七年には広東まで進出し、シナ貿易を始めた。二世ジャーナリストの先駆者、山城ジョゼーは『Choque luso no Japao dos seculos XVI e XVII』(十六~十七世紀の日本に於けるポルトガルの影響、一九八九年)でも「日本人奴隷」という一項を設け、かなり詳述をしている。
 それによれば一五二〇年ごろに最初にポルトガル人によって売買されたアジア人は「無数の中国人奴隷だった」(百一頁)という。
 一五四三年に商人フェルナン・メンデス・ピントが種子島に火縄銃(鉄砲)を伝えた。日本にとっては、西洋社会との突然の初接触だった。
 ポルトガル人からするとブラジルは偶然発見された場所だが、日本は何十年がかりの大冒険の果てに、ようやく辿りついた最終目的地だった。
 一五四九年八月にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが訪日し、南蛮貿易が始まった。このすぐ後から、日本人奴隷も運びだされるようになったようだ。
 アンドウの『ブラジル史』には、ポルトガルの歴史家ルシオ・デ・アゼヴェード著『Epoca de Portugal Economico』からの引用があり、「インド貿易の全盛期には、ブラジルのインディオをはじめインド人・シナ人・ジャワ人、さらに日本人までも奴隷として輸入していた」(四十九頁)とある。
 十六世紀末には、日本も海外拡張を目指していた。豊臣秀吉は明の征服を目論んで朝鮮出兵(一五九二、一五九八年)をした。この時、日本に連れてこられた朝鮮人が奴隷としてポルトガル商人に売られていったとの記述もある。
 つまり日本人同様、アジア各地の人々が南米にまで来ていてもおかしくない。(つづく、深沢正雪記者)

写真=ブラジルの古地図