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日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(5)=売り渡したのも日本人=晴天の霹靂、驚愕する秀吉

ニッケイ新聞 2009年4月16日付け

 戦国大名・織田信長はイタリア人のイエズス会宣教師からアフリカ系奴隷を献上され、弥助(ヤスケ)と名付けて武士の身分を与え、家来にしたとの記録がある。フリー百科事典『ウィキペディア』によれば、現在のモザンビーク周辺出身の黒人だったようだ。以下、少々長いが転載する。
 「元々は宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに仕える奴隷であったと言われている。天正九年(一五八一年)、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に連れられていたのが信長の目にとまった。信長は最初、肌の黒さが信じられず彼が身体に何か塗っているのかと思い、二月の寒空の下でたらいに入れて家来に体を念入りに洗わせたが肌が黒いままだった。肌の色の黒い人種がいることを理解した信長は彼に興味を持ちヴァリニャーノへ要望して献上させ、そのまま直臣になったと伝えられている。信長が彼を『ヤスケ』と名づけ武士の身分を与えて家臣とし衣食住不自由がないように取り計らってくれたことに大いに感謝し、忠実に仕えたと言われる」
 この一事をみても、洋の東西をつなぐ奴隷搬送ルートが確立されていたことは間違いない。
 織田信長にしても、その後継者である豊臣秀吉にしても、当初はキリスト教の庇護者であった。特に秀吉は一五九二年に朱印船貿易を始め、持ち込まれる希少品の数々に魅了されていた。
 というのも、信長は仏教に対して不信感が強かった。反信長の急先鋒であった本願寺が、日本全国の一向一揆を動員して徹底的に抗戦し、苦しめたからだ。その力を削ごうと、異教の布教を許したと考えられている。
 しかし、秀吉はキリスト教徒による仏教徒や神道徒迫害が増えたことを憂慮し、さらに一五八七年の九州平定を経て、日本人奴隷のありさまを見るにいたって、考え方を一変させる。
 『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』(池本幸三/布留川正博/下山晃共著、人文書院、一九九五年、百五十八~百六十頁)には、次のような記述もある。
 「南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。(中略)『バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様』といった記述に、日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる」
 誰が売ったかといえば、それもまた日本人だった。『ブラジル史』でアンドウは「ポルトガルで奴隷として売られた日本人は、九州地方のキリシタン大名によって売られたものである」(六十三頁)と書く。
 アフリカで黒人をポルトガル人に売り渡したのは、黒人自身であったが、日本においても同様のことが起きていたようだ。(つづく、深沢正雪記者)

写真=織田信長