ニッケイ新聞 2009年4月23日付け
日系社会には〃民族絶滅〃の悪夢を背負った亡霊が徘徊している――。
山田長政、タイ日本人町の長になった人物だ。四百年後の現在、日本人町の痕跡や子孫はまったく残っていない。時の流れの中で跡形もなく消え去ってしまった。
彼が朱印船にのってシャムに渡ったのは一六一一年。当時は東南アジアのあちこちに日本人町があった。
山田長政は傭兵隊に加わり功績をあげ、七千人もいたアユタヤの日本人町の長に任命された。その後、王位継承の争いに巻き込まれ、一六三〇年に殺された。反乱を恐れたアラビア人、タイ族などにより日本人町は焼き払われ、その子孫はまったく分からない状態になってしまった。
その後、一六三八年の天草の乱は鎖国を決定付け、東南アジアの日本人町を消滅させる原因となった。あちこちにいた日本人町住民を合わせれば、数万人規模だったと推測されるが、その血は数世代を経て完全に現地に溶け込んでいった。
コロニアでは、消えた日本人町が歴史的教訓として語り継がれている。
『文協四十年史』(ブラジル日本文化協会=当時、一九九八年)に掲載されている「日伯学園建設計画(案)」にも、次のような一節がある。
「安土桃山時代、多くの日本人がアンナン、シャム等へ進出し、沢山の日本人町を造ったと言われているが、その中でもシャムの山田長政は国王にまで登りつめたにもかかわらず、日本の鎖国による後継移住者途絶により、現地社会の中に埋没し、現在では歴史上にただその名を留めているにすぎない。私たち日系コミュニティも、この山田長政の轍を踏まないために、日本の協力を得て生き残り策を構築しなければならないと考えている」(三百五頁)
日本の日本人にとっての山田長政は単なる歴史上の人物だが、コロニアにとっては先達であり、他山の石だ。それゆえ、自らの将来に重ねて、切実な思いで節目節目にその名が現れる。
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一方、スペイン南部のセビリア県コリア・デル・リオ市(人口二万人余り)には約四百年前の支倉常長率いる慶長遣欧使節メンバーの末裔を名乗るハポン(Xapon)姓の人たちが六百人も住んでいるという記事が読売新聞一九九六年十一月九日と二〇〇三年十二月三日に掲載された。二つの記事を総合すると以下の内容になる。
仙台藩主・伊達政宗が一六一三年(慶長十八年)にスペイン領だったメキシコとの直接交易を目論見、約百八十人が木造帆船で外交使節団として派遣された。
同使節団は一六一三年に仙台を出発し、メキシコを経由してスペインには翌年到着し、最終目的地であるローマで一六一五年に法王に謁見した。
丁度その頃、日本では一六一二年に岡本大八事件(キリシタン大名がからんだ疑獄事件)が起き、家康が大名諸侯にキリスト教禁止を通達し、翌年には側近が「排吉支丹文」を書いて明文化し、以降、全国的に迫害が強まった。
遣欧使節団は帰路、幕府がキリスト教弾圧の動きを強めたことを知り、五人がコリア・デル・リオ市にとどまった。
同記事によれば、一六二二年にハポン姓の農業従事者を記した古文書が残っているほか、一六四六年のスペイン王室の国民徴兵名簿にバルトメ・ハポンの名前が存在しているのが証拠だという。
〇三年十一月一日に、日本大使館の呼びかけでハポン姓四十人が集まった。スペイン・日本常倉恒長友好協会のカルバハル・ハポン会長によれば、ハポン姓をもつスペイン人は六百四十五人も確認されている。
同記事には「駐スペイン田中克之大使は『学者たちは九割は間違いないといっており、それを尊重する方がロマンがあると思う』という」とある。九〇年代中頃に在聖総領事となり、ペルーの日本大使公邸占拠事件で陣頭指揮を執って活躍した、あの田中氏だ。
スペインにおいては姓だけは残った。百年を経過したブラジル日系社会の三百年後は、どうなるのか。(つづく、深沢正雪記者)
写真=読売新聞の記事