ニッケイ新聞 2009年4月24日付け
スペインには四百年前の日本人の末裔が、少なくとも六百四十五人確認されていると前回紹介した。ならば、ポルトガルはどうなのか。日本姓が残っているという話は聞かないが、日本人奴隷がポルトガルまで連れてこられたことは前述のようにあちこちに歴史的な記述があり、事実と考えて良さそうだ。
中隅さんは『ブラジル観察学』(無明舎、一九九五年)の中で、日本人奴隷がポルトガル本国で混血したことが、ブラジルにも間接的に影響しているという興味深い考察をのべている。
「もともとポルトガル人は雑種の国民で出自や毛並みの良さを誇るわけにはいかないのだ。(中略)ポルトガル人は十六世紀の時代から日本や中国と交渉があり、日本人女性の奴隷も相当数ポルトガル人に買われている。当然混血児が出てくることになるわけだが、このようにアジア人に対する違和感が歴史的に薄いのである」(『観察学』二百八十九頁)と旧宗主国、植民者たちの性格特性を分析し、それゆえ、現在のブラジルの寛容性が生まれたのだとの興味深い論理を展開する。
しかも、ポルトガルは小国ゆえ人口が少ない。「一五二七年にこの国(ポルトガル)はじめての国勢調査が行われ、百四十万人の数字が出ている」(『観察学』百八十頁)というから、今の日系人口より少ない。
もし、同国に五千人の日本人奴隷がいたのであれば二百八十人に一人の割合だ。混血を重ねたであろうから〃日系人〃の割合は低くない。時代と共に混じって薄まったとはいえ、ある意味、日本人のDNA(遺伝子)は広まったともいえる。
つまり、四百年前の日本人奴隷の存在は、混血を通して、旧宗主国ポルトガルのDNAとして元々ブラジル人一般にも受け継がれていたと考えられる。現在のような親日的なブラジル風土が生まれた遠因かもしれない。
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ブラジルで長きに渡る黒人奴隷時代が終焉した時、ふたたび日本人が現れる。ポルトガル時代の混血から数えれば、百年前からの日本人の血が入っているのは「二度目」と言えなくもない。
一八八八年のアウレア法が黒人奴隷を禁止したため、コーヒー農場の労働力が足りなくなり、最初にドイツ、スペイン、イタリアなどの欧州移民が導入された。奴隷同然のあまりの酷い待遇に欧州からの送り出しが減ると、日本から導入されることになった。
人間以前、単なる商品だった「奴隷」に人権が認められたのが、二十世紀初めの「コロノ(農業労働者)」といえる。笠戸丸移民が到着した頃はまだ奴隷制時代の余韻が色濃く残っていた時代であり、黒人奴隷の代わりに日本移民が大量に導入され始めたのが百一年前だ。
なんの因果かしらないが、農場の奴隷同然の労働から逃れた日本人が住み着いたのは、逃亡黒人奴隷などの首つり処刑をした旧ラルゴ・ダ・フォルカ周辺だった。ブラジル帝国時代の一八五八年にラルゴ・ダ・リベルダーデと改名され、現在はプラッサ・ダ・リベルダーデと呼ばれる。東洋人街として戦後、生まれ変わった。百周年の昨年は実はリベルダーデ改名百五十周年でもあった。
セー広場周辺だけが市街地だった十八世紀、名誉ある死を遂げた人は市内に埋葬された。リベルダーデ広場周辺はまだ市外地であり、一七七五年に処刑場および不名誉な死を遂げた人の墓地が作られた。
「処刑=魂が自由(リベルダーデ)になる」ことに由来する歴史を今に伝えるのは、エスツダンテス街の中ほどにあるアフリットス(苦しめられた人々)街だ。どん詰まりにある、墓地のカペラ(礼拝堂)は今もひっそりと鎮魂ミサを続けている。
若宮丸の歴史からさらに二百年さかのぼる戦国時代に、日伯関係の始まりがあってもおかしくない。研究者諸氏の奮闘により、その記録が発掘されること期待したい。
このような歴史から何が学ぶかが百一年目の課題であろう。(終わり、深沢正雪記者)