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聖南西=衰退する地方団体の苦悩=連載(中)=山村会長・小川氏=積極参加求め行脚=デカセギとコチア崩壊=「15年間何もしてない」

ニッケイ新聞 2009年5月9日付け

 二日午後二時十五分、次は四カ所目、西へ約二百キロ離れたアヴァレー文化体育協会へ。市街地にある立派な会館で、横に大きく「KAIKAN」と書かれている。連盟の活動への参加が非常に少ないという。
 渡辺幸子さんは二十年前、最後の婦人部長だった。「あの頃は婦人部だけで五十~六十人いたのよ」。今でも会員は百五十家族いるが、婦人部同様、青年会、親睦会も同じ頃に活動を停止したという。もちろん日本語学校もない。
 同地の古参二世の村越ケンジ理事によれば、一九四〇年代に棉作が盛んで、二百五十家族以上が住んでいた。会創立は五七年、会館建設は六一年と早い。
 渡辺さんが「山村さんはどこ?」と聞くと「レジストロ」、「まあ、遠いとこから」と驚く。すかさず山村連盟会長は「(こっちからでも)距離は同じなんだから。パッセイオ(旅行)だと思えば、お弁当を途中で食べてね、近いですよ」と笑いを誘う。
 二十年前といえば、デカセギブームが始まった頃だ。地方から若者が大挙訪日し、「コロニアの空洞化」への危機感が叫ばれていた。その結果が今、ここにある。
 会館二階の会議室には仏壇があり、定期的に仏教会などの会合がもたれているが十人以内しか参加者がいないとか。後はゲートボールに二十人、カラオケに五~六人が参加しているのみ。
 岡村哲(さとし)会長代理(二世)は「日本料理講習会などがあれば、若い日系妻たちが集まってくれると思う」と提案すると、山村連盟会長は「美容講座もいいかもしれない。検討しよう」と答えた。
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 午後四時四十五分、さらに八十キロほど西、パラナ州境にあるイタポランガへ。ここは連盟活動への参加が皆無だ。
 会館で、渡辺キイチロウ会長(二世)が待っていた。「ここはコチア組合の町だった。バタテイロ、トマテイロがたくさんいたんだ。でもコチアが解散して全部止まってしまった。十五年間なにもやってない。今やっているのは忘年会とヤキソバ会だけ」。
 十五年前、何があったか――。
 九四年四月四日、富森敏雄理事長から電話で南伯農組中央会に呼ばれ、記者会見で解散の発表を聞いたのを思い出す。奇しくも、ちょうど十五年だ。同年九月三十日にはコチアのジャグアレー本部に呼ばれて、下元慶郎会長、前田征男副会長、岩城修審議役から解散決議に至った経緯を取材したのが脳裡をよぎる。
 サーッと背筋が寒くなる。両中央会崩壊のインパクトの強さは分かっていたつもりだったが…。その後の経緯を目の当たりにすると、なんともいえない感慨をおぼえる。
 山村連盟会長が「この町はたしか、昔は〃テーラ・ダ・フェイジョン〃(フェイジョン豆の大産地)と呼ばれてましたね」と確認すると、渡辺会長は憶えている人がいたことが嬉しかったらしく、「私がここに来た一九五八年には、コチアが町の全てを取り仕切っていた。シネマ屋もよくきてね、それは賑やかだった。そんな六六年頃、この協会は創立された。婦人部も盛んだった」と声を弾ませた。
 最盛期には人口二万人を数えたが、今は一万二千人。銀行も七行もあったのが三行だけになったという。
 「コチア崩壊で全部パラード(停滞)になった。会員は今でも七十家族いるけど、若い者はみなデカセギにいってしまった。危機で何人かは帰ってきたが僅かだね」と寂しそうにつぶやく。
 山村連盟会長は「とにかく連盟の会議に一回来てほしい。一枚の紙はすぐ破れるが二十枚なら簡単に破れない。みんなでどうしたらいいか考えよう」と訴えた。(つづく、深沢正雪記者)

写真=アヴァレー文協の渡辺幸子さん(左)、岡村哲会長代理(右)