2009年5月23日付け
今年一月、東京・銀座に耳慣れないシュプレヒコールが響いた。
「Sou Brasileiro!」「使い捨てヤメロ!」
これまで自動車工場などで働き、日本経済を底辺から支えてきた在日ブラジル人ら約二百人だ。多くが世界同時不況で職を失っていた。
先導した日系二世のラップ歌手・石川ホベルトさん(36)は日本語で買い物客に訴えかけた。「みなさんが乗っている車、食べているお弁当、使っている携帯電話。みんな僕らが工場でつくってきました」
デモ終了後、達成感から参加者の表情は明るかった。ホベルトさんは「ふだんアンダーグラウンドにいる僕らが、こうやって東京の真ん中で声を上げられただけでうれしい」といった。
同様のデモは浜松や名古屋でもあった。
これまで日本で暮らすブラジル人は、給料を得ることに専念するあまり、共助組織をつくるなどのまとまりに欠ける印象があった。またブラジル人が多い町では地元の住民とのかかわりがほとんどなかった。
それが、不況で変わった。
百年に一度の不況という苦しい時ではあるけれど、こうして在日ブラジル人たちがまとまり、自分たちの暮らしについて真剣に考え、日本社会との共生を模索していくならば、新しい日本とブラジルの関係、そして日本社会とブラジル人の関係が生まれるのではないか。現場にいた私はそう思い、胸が熱くなった。
だからニッケイ新聞の報道などで、コロニアの人たちが「百年前の移民は奴隷のような境遇でも耐えてがんばったのに」「日本に住ませてもらっているくせにデカセギは権利だけを訴える。恥ずかしい」などとデモを批判的にとらえているのを知った時は悲しかった。
在日ブラジル人に対するメディアや日本社会の反応は、今のところ、おおむね同情的だ。
私はデモ現場で、歩道を行く買い物客数人に感想を聞いた。残念ながらポルトガル語のかけ声はほとんど通じていなかったが、「苦労しているのをテレビや新聞で見ました。かわいそうですね」「日本社会は、こうして働いてくれる人に支えられているのにね」という声が返ってきた。
昨年前半まで、日本のメディアは、ごく一部の犯罪者である国外逃亡犯問題にむやみに焦点をあてたり、ゴミの出し方を知らない、深夜まで大きな音を出して騒ぐなど、地域住民との摩擦を中心に伝えたりしてきた。
移民百周年に関連して日系社会の今を伝えようと考えても、なかなか大きな紙幅をとることは難しかった。
だが最近は、生徒が減って閉鎖されるブラジル人学校やブラジルに戻ってからの苦労などを克明に伝えている。
むろん、この「同情」は、生活に困った日系人による犯罪が今後多発すれば、すぐに消える程度のはかないものだろう。だが今のところはかろうじて「優しい視線」が保たれていると感じる。
こうした優しさがなぜ生まれたのかを考えると、その源には、日本の現状への国民の反省心があるのだと思う。
二十一世紀に入り、日本は小泉首相の下で「弱肉強食」の米国型資本主義社会への変革を急いだ。「グローバル化」「効率化」こそが進むべき道だと信じた。だが、現在の不況の中で、日系人だけでなく、多くの日本人の若者も「労働力」として使い捨てにされていたことが、誰の目にもはっきり見えてきた。
今年の正月、皇居に近い日比谷公園には多くのホームレスや失業中の若者が集まり、炊き出しに並んだ。
ちょうど派遣契約を切られた労働者の失業問題が大きな問題になっていた時期だ。「日雇い派遣村」と名づけられたこの催しは「経済大国・日本が直面した格差と貧困」の象徴として大きく報じられた。
新聞やテレビの取材を受けた彼らは、だれも頼る友人がいなかった。語られるのは、会社や社会への愚痴ばかりだった。
コロニアの人が郷愁とともに信じる「だれもが助け合う心優しさ」など、まだこの国に残っているのだろうか、と思うような光景だった。
一方で、私は神奈川県平塚市に暮らす日系ブラジル人たちを取材した。小さな自動車部品工場で働いていた彼らは昨年末に「もう仕事がない」と首切りを迫られた。その時、リーダーの三世の若者は「給料を減らしてもいいから、だれも切らないでくれ」と会社側に要求。仲間も説得した。
日本人の上司はいった。「今の日本人の若者にあんな立派な奴はいない」。
日本で日系人を取材していると、実に多くのしっかりした若者たちに出会う。「共に生きていきたい」と思う人たちだ。「不良」とみなされている子でも、仲間を守り、しっかりと世の中を見据えている。彼らが「不良」として育たざるを得なかった日本社会とは何だろう、と時に思う。
私は最近、「デカセギ」という言葉を記事の中で使うのを極力避け、「在日ブラジル人」と書くように心がけている。「デカセギ」という語感が日本の読者に「ブラジルから来た連中は腰掛け程度の短期だけ日本で稼ぎ、本国に帰っていい思いをする」という印象を与えているように思うからだ。そして、それが政府やメディアに「共に暮らす」という意識を持つことを妨げている。
だが、入管法改正からまもなく20年がたつ。多くの、日本しか知らない子どもたちが育っている。いま生まれ始めた「共に暮らす」という意識をどう形にするか。遅きに失したかもしれないが、両国の政治家、学識者、メディアが真剣に考えるべき時が来ている。
石田博士(いしだ・ひろし)
朝日新聞社会部記者。70年岡山県出身。筑波大学在学中に日本ブラジル交流協会の研修留学制度に参加して日伯毎日新聞などで研修。94年に朝日新聞に入社し、2005年9月から3年間、サンパウロ支局長を務める。39歳。