ニッケイ新聞 2009年5月27日付け
世界史の視点から見たとき、アルゼンチンに最初の日本人が渡った四〇〇年前からしても、日本は明治時代になってから、わずか百四一年の歴史しかない。
百一年の歴史を持つ日系社会を見直す前に、まず日本が開国してからわずか四〇年余りでブラジルに移民を送り出したという意味を、もう一度、しっかりと考え直す必要がある。
前回の連載「日本人奴隷の謎を追って」では、日本が鎖国に至るまでの歴史を、ポルトガルを軸に南米との関連で追った。今回は、十九世紀という激動の時代に、どのように旧大陸から新大陸へ渡る動きが生まれ、黒船によって日本が開国したあと、いかにして移住という流れにつながっていったかを追う。
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一八五三年、ペリー浦賀来航。翌五四年に徳川幕府は日米和親条約を締結し、事実上の鎖国終結を迎えた。そして、一八六八年の明治元年に向けて、急速に歴史の歯車が回り始める。
いったい、この一九世紀はどんな時代だったのか。「移住」の原点は開国と明治時代にある。
歴史に「もし」はないが、仮に鎖国がもっと短ければ、いや、鎖国していなければ、おそらく日本人町はアジア各地で再興され、今頃は日系人が東南アジアのあちこちにおり、外国において日本文化を継承するノウハウも蓄積されていただろう。
しかし、現実にはそのようなことは起きなかった。山田長政の日本人町は途絶えてしまった。
黒人奴隷をのぞいて考えれば、ブラジルへの移民の大半は欧州からやってきた。「移住」を見直す上で、欧州移民と日本移民を比較することは、避けられない視点だ。
十九世紀、欧州では移住が日常的に起こり、あちこちに国境を越えたコムニダーデが形成されていた。このような人やモノ、文化、金、情報などの、国境を越えた移動の活発化の延長線上にあるのが現代を特徴付けるグローバリゼーションだ。
「一八一五年にナポレオン戦争が終結すると、ヨーロッパ内部の移動に加えて、大西洋を越える移住が本格的に始動し、以後第一次世界大戦に至るまで、多少の波はあるものの、大規模な労働力の国際移動が展開した」(『近代ヨーロッパの探求1移民』ミネルヴァ書房、一九九八年、序章)とある。
同書によれば、約二〇年に渡ったナポレオン戦争が終結して欧州の人口が激増したことに、欧州移民大移動の大きな原因がある。
欧州人口は一八〇〇年の一億八七〇〇万人から、一九一三年の四億六八〇〇万人へと激増した。農村居住者が九割を占めていた一八〇〇年当時、これにより、農地の細分化が進んで狭小化し、人口の流動化を強く後押ししたという。
その結果、「一九一一年に、フランス在住外国人労働者約一〇〇万人(フランス人口に占める割合は二・九%)のうち、イタリア人は四二万人、ベルギー人は二九万人であった」(同一二頁)というような外国人との共存状態が、欧州内の各大都市を中心としてすでに現れていた。
現在の在日ブラジル人が三十万人余り。百年前の時点でフランスにはそれを超えるイタリア人がすでにいた。欧州移民はブラジルに来るはるか以前から、移住に対する心構え、経験があった。
一八世紀に英国などで起きた石炭、蒸気機関を動力源とする毛織物を中心とする産業革命が広がり、一九世紀には資本主義の世界的なシステムが形成され始め、都市を中心とした産業が発達して工場労働者が増え、それに伴って農村から都市への人口流入が起き、主に東欧や南欧から西欧への国境を越えた欧州内労働者移動、さらには大西洋を越えた移住につながっていったという。
「一八二四年と一九二四年の間に、約五二〇〇万人がヨーロッパを離れたが、そのうち三七〇〇万人(七二%)が北米に、一一〇〇万人(二一%)が南米に、そして三五〇万人がオーストラリアとニュージーランドに向かった」(同、八頁)とある。うちブラジルに入ったのは南米分の半数近い約四四〇万人だった。
つまり、この世界資本主義化の流れ、グローバル化の波に乗って欧州を出発した移民の大半は北米を目指し、約一割がブラジルに入った。
ブラジルへの日本人移住が始まる以前である一九世紀は、とんでもない世界人口の大移動が起きた〃移民の時代〃だった。(つづく、深沢正雪記者)