ニッケイ新聞 2009年5月29日付け
一九世紀という時代は世界の激変期だった。しかし、日本がこの世界の資本主義経済に巻き込まれたのは明治になってからで、ブラジルよりも半世紀以上も遅かった。
薩摩藩と長州藩の中級武士団が一八六八年に倒幕に成功した理由の一つは、西洋の軍事技術の導入だった。この時点で、世界経済システムに巻き込まれることは運命付けられていた。
「一八一五年以来プロシアとフランスの専門的参謀将校が体系化してきた新しい軍事技術を、一八六〇年以降、ずば抜けてうまく創造的に吸収したことにあった。彼らはこうして、英国人武器商人から購入した七三〇〇丁の超近代的ライフル(そのほとんどはアメリカ南北戦争の中古品だった)を効果的に使用できたのだった」(『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン、リブロポート、一六一頁)
明治初期は、九州、関西、江戸の話される言葉は、方言が強くてあまり会話が成り立たなかった。その後、明治政府による公用語としての日本語制定、学校教育による普及を経て、この時期に「日本人」という意識が生まれていった。
と同時に、政府による「軍需を基礎とする工業化計画の資金調達のため、農民は情け容赦なく徴税され苦しんだ」(同一六三頁)という状況が移民を日本から送り出す圧力の源泉となった。
開国して、まず何の移住をしたかと言えば〃海〃を渡るとはいえ、北海道開拓移住だった。
移民五十周年の日系人実態調査の報告書『ブラジルの日本移民』(一九六四年)によれば、明治初期、一八七〇年からの五年間で四万人を本土から北海道へ送りだした。
北海道移住が本格化したのは一八八五年からで、ハワイ、北米、カナダへの「海外」組も同じ時期に拡大した。北海道へは一七万人(五年間で)、「海外」は一万二二七五人(同)だ。
以来、増加傾向を強め、笠戸丸を送り出した一九〇七年を含む一九〇五年からの五年間が最盛期で、なんと三〇万人が北海道へ渡り、「海外」へは五万七九五三人を数えた。
北米への日本移民は太平洋岸の港に到着し、カリフォルニアに集中して定着する傾向を見せた。中国人移民が排斥されて入国が禁止となり、その後釜として導入された経緯がある。最初は主に農場の季節労働者、鉄道工夫、製材人夫などが多かった。
ブラジルと同じく、最初は農場労働者として働くが、しだいに内陸部に入って農業経営者となり、「ポテト王」と呼ばれた牛島謹爾(ジョージ・シマ)のような成功者まで生んだ。「一九二六年に死亡した時、推定一五〇〇万ドルもの財産を残したといわれる」(『エスニック・アメリカ』、一五一頁)
北海道移住は、出欧州移民の最盛期の波と近い時期に起きていた。日本が開国した時点で、世界のグローバル化の波に飲み込まれていた。
「一八八〇年代の日本は産業資本の形成期、つまり資本主義経済への移行の始まった時期で、農村経済の困窮から、労働力は都市に流れ、あるいは海外へ流れたのである。ハワイ王国への官約移民の第一回(一八八五年)募集人員六〇〇人に対し二万八〇〇〇人が応募した(採用は九五三人)ことからも、この時代に、農村の経済的疲弊による潜在的移住希望者が多かったことがうかがえる」(『エスニック・アメリカ』、一四七頁)
欧米に比べ、資本主義経済への移行は大きく出遅れていた。その遅れを急速に取りもどすため、明治政府は農民から重税を吸い上げ、それを元手に産業化を図って富国強兵策をとり、外国との数次に渡る戦争に勝つことによって、外敵を強く意識させる中で、「日本国民」という意識を徐々に植え付けていった。
しかし、ものごとには裏と表がある。国内的には国民国家形成に大きく役に立った日露戦争勝利だったが、北米では逆にそれがきっかけの一つとなって、日本脅威論や黄禍論が隆盛し、日本移民への排斥運動が始まった。(つづく、深沢正雪記者)