ニッケイ新聞 2009年6月5日付け
百周年では、いろいろな日系文化現象がブラジルどころか、世界で脚光を浴びた。英国BBC放送、中東のアルジャジーラ、仏ル・モンドまでがこぞって報道したことは記憶に新しい。
全伯に建立されている鳥居と日本庭園、北パラナの若者を中心に広まっているマツリダンス、ラジオ体操、サンパウロ市の街角には欠かせないヤキソバの屋台、五~六月の運動会、七月の県連日本祭りやサンパウロ仙台七夕祭り、七~八月の盆踊りや桜祭り、一二月のリベルダーデ広場の東洋祭りと大晦日の餅つきなどだ。
例えば県連の日本祭り一つとっても、地元が主催する二十万人規模の日本文化をテーマにした大イベントとしては、外務省関係者に尋ねても「これだけの規模のものは世界でも他に聞いたことがない」と口を揃える。
我々はこれらの現象を日常生活の一部として、当たり前のように思っている。ところが、このような独自の日系文化を獲得できた日系社会は世界でも数少ない。
ブラジルよりも先に移民が渡った北米では人種差別や同化圧力が強く、また他の中南米諸国などでは人数が少なく、独自の日系文化を発展させる方向性は強く持てなかった。ブラジル日系社会の貴重さの一端は、ここにある。
ブラジル日系人の歴史は世界においても独特だ。であれば、この百年の歴史は非常に重要、かつ有意義な何かを内包しているに違いない。
かつて日本移民には子供にどう日本語を教えるか、日本文化をどう伝えるか、なんの指標もなかった。日本社会自体にまったく体験のない、理解や認識すらないことを、生活の中で暗中模索しながら現在の日系文化を創造してきた。
西洋世界がグローバル化する中で一九世紀から積み上げてきた移住経験を、日本移民は百年間で圧縮して追体験してきた。
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日系社会の歴史には、日本史にとっても重要な課題を内包する。
「鎖国」という文化的防波堤は江戸時代の二百六十年間の長きに渡り、しっかりと機能した。鎖国の意味としては、外からの侵略をふせぐことが重要な機能として考えられることが多い。
これを「移民」の視点から見直してみると、実は外へ出ていく(移住)ことを阻止する意味でも重要な役割を果たしていたことが分かる。
「開国」の意味は、外国のモノや人を受け入れるだけでなく、外国へ出て行くことも必然的に含まれるからだ。ところが近代史において、出る部分は無視されてきた。
百万人を超える日本人が海を越えたにも関わらず、日本の歴史教科書に移民のことは記載されてこなかった。これが意味するのは、物理的には開国しても、今でも意識の部分では〃鎖国〃している状態だということだ。
それゆえ、日本からの出移民の時代が七〇年代に終わって、八〇年代から入移民の時代になった時、どのように定住外国人に対応したらよいか苦慮するようになった。
かつて日本移民が外国へ渡って日系人になっていく過程が注目されることがなかった。いわば無視されてきたから、今になって在日定住外国人をさかんに語る時代になっても「移住」への理解が足りないようだ。
日本にとって、外国における日本文化の普及拠点が日系社会であると同時に、労働力の供給拠点でもある。日本では出・入移民は表裏一体の関係にあるという認識が、まだ一般化していない。
デカセギは、かつて出移民していった人たちの子孫が、現地国人を配偶者として戻ってきているということだ。出移民たちがブラジルへの適応・同化プロセスとして行ってきたことが、今度は日本国内で繰り返されるという意味でもある。なにも新しいことはない。
出移民の歴史を知ることで、今の在日外国人労働者の将来を予測することもできるはずだ。
つまり、グローバル化の中で、歴史社会認識も国内だけで完結しない時代になってきた。外国の歴史と日本のそれはつながっており、一体となって一つの世界史観が作られる時代になっている。
ブラジルの日系社会と在日ブラジル人コミュニティは別々のものではなく、歴史的にも人脈的にも緊密につながっているが、総体として論じられることはなかった。現代に相応しい、日系社会論や日系人認識が必要になってきている。(つづく、深沢正雪記者)