ニッケイ新聞 2009年6月6日付け
雨季もほぼ終わりの四月下旬、アマゾナス州マナウスを訪れた。ラ・ニーニャ現象の影響もあり、アマゾン流域は大増水。「百年来の大水」とのニュースが市民の話題をさらっていた。
市対岸への船が発着する港の水位は上がり、渡された板の上を歩いて、ボートに乗り込む。けたたましいエンジン音に耳が慣れてくる頃、大都市マナウスとはうってかわり、港で魚を売り買いするのんびりした風景が視界に入ってくる。ベラ・ビスタ移住地の入り口となるカカウ・ピレラ港だ。
この間八キロのネグロ川を結ぶバルサ(輸送船)が定期就航を始めるのは七三年。それ以前は、個人で所有する船のほか、月に二度ほど運航される州政府の船のみが交通手段だった。
文明と切り離されたようなこの地に日本人移民が最初に入植したのは、一九五三年九月――。
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「マナウスに石油や塩、砂糖、ピラルクーの塩漬けなんかを買い出しに行ってた。ペンソンで帰りの船を待ってね」
当時をそう回顧するのは、第一陣で入植、現在も移住地に住む野地忠雄さん(69)。当時十三歳だが、それまでの人生が壮烈だ。
両親はカニエテ(ペルー初期移民が入植した海岸の町)に入ったものの、奴隷同然の過酷な耕地生活から夜逃げ。「リマで散髪屋や金物屋をしていた」という。
野地さんが生まれた一九四〇年五月、リマでは大規模な排日暴動が起き、日系社会は大打撃を蒙った。多くが帰国、残った日本人は敵性国民として扱われた。一家五人は米国テキサス州の強制収容所に送られる。
「いい生活でした。毎日一人一リットル牛乳をくれるから、余ったら花の肥料にしてたくらい。日本映画も上映もあって、スイカなんかも配られたしね」。二年ほどの収容所生活は終戦とともに終わる。
日本に帰国するか、アメリカに残るか、ペルーに戻るかの三者択一を迫られ、父親の竹治さんは、故郷福島に戻る道を選んだ。
「みんなに『日本は負けてるから帰るな』って言われたのにバリバリの勝ち組だから、意地張ってねえ…。日本を選んだ人は、苦労したんですよ。僕も学校で苛められてね。戦後の食料不足で弟(秀夫、四五年生まれ)は栄養失調に。親父は商売も成功していたし、またペルーに行きたかったんだろうね」。
ベラ・ビスタ移住地入植の募集を知った竹治さんは、地理的に〃近い〃ことから、再度、南米へ夢をかけた。
「落ち着いたら、ペルーに行くつもりだったんだろうけど…出るに出られんもんね」
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一九五一年、辻小太郎、上塚司らの要請を受け、ゼツリオ・バルガス大統領は、北伯地域への日本移民五千家族の入植を認めていた。
ベラ・ビスタ移住地は一九三七年から連邦植民地として運営を開始していたが、カボクロがマンジョッカを作る程度に留まり、全く開発が進んでいなかった。
植民地のビセンテ・デ・ランゼル支配人は、パリンチンス方面でジュート栽培を成功させていた日本人移民に目をつけ、導入を図ったが、受け入れ態勢はほぼゼロの状態だった。(つづく、堀江剛史記者)
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本紙ではアマゾン日本人入植八十周年を記念した連載企画「アマゾンを拓く~移住80年今昔」の掲載を始めます。
写真=(上)「もう動きませんよ」と笑う野地忠雄さん。ペルーで生まれ、アメリカに強制収容された経験をもつ/53年9月、第一陣がカカウ・ペレラ港に到着した(西部アマゾン日本人移住70年記念誌「緑」から)