ニッケイ新聞 2009年6月9日付け
昼なお暗い密林のなかに伸びた道にホエザルの叫び声が響く。両側に等間隔で打ち込まれた杭だけが自分の土地の印だった。
渡航契約時、「家もあり、伐採も済んでいる」と聞いた話とあまりに違う。幼子も連れた二十三家族は、原始林を前に立ち尽くした――。
日本からベレンまで一カ月半の船旅後、マナウスまでアマゾン河を溯上する船に乗り換えるさい、すでに問題が起こっていた。
パリンチンスでジュート輸出に携わっていた高村正寿氏(後の海協連マナウス支所長)は、第一陣の到着を控え、移住地に問い合わせた結果、受け入れ態勢が一向に進んでいないことを知る。
現地に赴き、移住地関係者に準備の要請後、その足でベレンに行くが、移民らが乗り換える船も準備されていなかったという。(移住地創設三十年史)
海協連ベレン支所長だった奥野隆男氏は、同記念史のなかで、「二ヶ月毎に数百人の移住者が相ついで到着するのに対して、受入れ準備はゼロであった。道路の不備、耕地割、伐採未完了、仮宿舎に居るものは次の移住者が来るので追い立てられ、一〇キロ近い道とも言われぬ山間の踏み分け道を家財道具を肩にて運搬し―(中略)漸くしてどうにか山を伐り稲の蒔きつけをなしたが、土地の調査、耕地割の無責任ななし方の為め砂地に耕地を割り付けられた者は、山焼稲の蒔付をなしても美しく発芽はするが、二、三日太陽が当ると稲は枯草の様になるー」(原文ママ)
日本海外協会連合会(海協連、現JICA)の元職員で、日本政府の戦後移住政策を告発してきた若槻泰雄氏も入植当時の移住地を訪問している。
著書『原始林のなかの日本人 南米移住地のその後』で最も強く印象に残っている移住者の言葉に触れている。
「―何を作っても無理です。野菜一つできませんよ。私らはもう駄目だから…くににうんといいことを言ってやって、みんなをこの地獄のなかに引き込んでやろうかと思っているんですよ」
若槻氏はただ、「一瞬暗黒の世界につき落とされたようなショックを感じ(中略)言葉もなく長い間立ち尽くしていた」と記している。
一九五三年七月の第一陣二十三家族から、六二年までに六陣百六十五家族が入植した。しかし、一、二年のうちに約八割の百三十家族が退耕している。
夜中に石油ランプを手に、持てるだけの荷物を背負い、いつ来るとも知れないマナウス行きの船を待つ移民らの姿がカカウ・ピレラ港で見られたという。
第一陣の野地忠雄さんは、「余りに逃げ出す人が多いから、軍隊が港に派遣されて日本人は出してくれなかった。だからみんな南のソリモンエス川で船を雇って、夜にボートを曳航してもらって逃げていた」と記憶を辿る。
「僕の家族は…親父も五十を超えていたし、踏み出す勇気がなかったんだろうね」
評論家大宅壮一も著書『世界の裏街道をゆく~南北アメリカ編』で触れている。
「船着場が関所のようになっていて、そこにブラジルの役人が移民の出入りを監視している(中略)ブラジル政府から支給されたものは、ヤシの葉三十束、板十五枚、マサカリ二丁とランプだけだという。
タネものや日用品を仕入れにマナウスに行くのも、全植民地を通じて一週間に三人というふうに制限されている。
あまり出すぎるというので逮捕命令が出たものもいる。これではまるで監獄部屋ではないかと、青年たちは私たちに訴えた」
「サンパウロの奥地の方では大勢が死んで大変だったみたいだけど、ここはマラリアがなく、死んだ人はいない」と〃不幸中の幸い〃かのように話す野地さん。
しかし、逃げる状況にない家族のなかには、後悔と悲観のあまり、農薬を飲んだり、密林のなかに入り、首を吊る人も出ていた。
日本政府が移住者に対して行なったのは、調査でも支援でもなく、渡航費の貸し付けのみ。
ベラ・ビスタ移住地は、まさに〃棄民〃政策の最前線だった。(つづく、堀江剛史記者)
写真=現在のカカウ・ピレラ港の様子。入植当時、あてどなく逃げ出す移民らが落ち着かない夜を過ごした