ニッケイ新聞 2009年6月10日付け
「絶望でした」――。第二陣として一九五四年六月に入植した石崎矩之さん(74、熊本)は当時の心境を回顧する。
「何を植えてもほとんど芽が出ない。出ても数日で枯れる。そもそも技術的な指導者が誰もいない。四俵の籾を蒔いて、刈り取れるのが七俵―。食えないですよ」
入植間もなく、四十肩のせいか、家長である父為之さんの左腕が上がらなくなり、「開拓どころではない」状況だった。
そんなおり、評論家大宅壮一氏に随行してきた案内役の三浦さんと話す機会を得る。三十万人近かったコロニア、すでに日本人街リベルダーデがあったサンパウロの存在を知る。
「ブラジルのことを何も知らずに移住しましたからね。『君みたいな若い人がここに埋もれていてはいけない』と赤間みちえさん(赤間学園の創立者)への紹介状も書いてくれました」
暗闇のどん底に届いた光明だった。一家は移住地を出ることを決めた。
同郷熊本出身で海協連マナウス支所長だった高村正寿氏も〃協力〃、「連れて逃げて欲しい」という二家族も合流、アメリカにいた親戚からの送金を待った。
「マナウスからサントスまで二十五日かかり、停泊中は食事がでない」と聞いた船は諦め、一番安かった航空会社のリオ行き切符を握り締め、五五年十一月、一年五カ月のアマゾン滞在に別れを告げた。
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石崎さんは今でも不思議に思うことがある。
財産を売り払い、銀行に入金した当時数十万の携行資金は、「海協連の下請けだった辻商会(アマゾニア産業株式会社)が管理し、買出しには職員がついてきて支払っていた」という。
「四年の契約を破って逃げたんだから、お金は引き出せないし、諦めるしかないーと思っていたんだけど、五七年頃、事業団の職員がサンパウロの家に〃借金〃の取り立てに来たんですよ。借りるどころか返してもらってもいないのに。それ一回きりでしたけどね」
『移住地創設三十年史』のなかで、高村氏は、上塚司に会社設立の指示を受けた「辻小太郎が目をつけたのが移民が持ってくる携行資金である(中略)銀行に預金し、移住者には毎月少しずつ渡せばいいからある期間其の金は銀行に寝ているのである。辻はこの金を見せ金としてベレンの大きな商社を勧誘、(中略)アマゾニア開発株式会社が発足した」と触れている。
「何があったか知らないがとにかくー」。石崎さんは続ける。「三浦さんには感謝してますよ。会ってなければ、ノイローゼになって死んでいたかも知れない。残った人は本当に大変だったと思いますよ」(つづく、堀江剛史記者)
写真=オンサの赤ちゃんを捕まえ、笑顔の石崎さん。入植当時の19歳、「まだ頑張ろうと燃えていた時期」だった