ニッケイ新聞 2009年6月11日付け
残った移住者らは密林を「拓」き、生きる道を「開」くことに懸命になるしかなかった。文字通りの開拓生活が続き、日本からの携行資金もやがて底をついた。
野地さん同様、第一陣で入植した宍戸宏光さん(72、神奈川)も当初の生活を振り返る。フィリピン生まれ。
「父(進さん)がマニラ麻をやってたから、試したんだけど…駄目だったねえ。コーヒーは小粒のものしかできず、出来が良かったグァラナは値段が安かった」
陸稲の収穫費という形でアマゾニア銀行から受けた短期融資を生活費に充てることになったが、生育不良が問題となった。借金も返せず、生活費もないという状況のなか、ゴムの植付けのため、新しい融資を受けることになる。
「ゴムは八千本あったら、左うちわと聞いたけど、植えてゴムが採れるまで八年かかる。融資、融資で十年間、借金ですよ」と野地さん。
その頃、胡椒の急騰による〃第一期黄金時代〃が訪れたパラー州トメアスー移住地に向かう脱耕者も続出した。
残った移住者らは、そのトメアスーから持ち込んだピメンタ、マンジョカ作りなどに取り組んだ。しかし、悪路のため運搬ができず、雨季には自給自足に近い生活を送らざるを得なかった。
白いフェイジョン・プライアの味噌、マンジョッカのしぼり汁に塩を入れ、焦がした砂糖で色をつけた代用醤油―。古里日本を懐かしみながら、地道な努力を続けた。
海協連からトラックやトラクターが貸与され、移住者らを泣かせた悪路も改善され、生活は徐々に安定していった。
六三年には入植十周年記念祭が行なわれ、ピメンタ(胡椒)の安定した収穫により、将来に希望が持てるようになった。後に養鶏が営農の中心となっていく。
一九六七年、ブラジル政府はアマゾン開発の一環として、マナウスに関税免除地域(ゾーナ・フランカ)を設置する。
移住地から、急成長を始めたマナウスへの本格的な輸送も始まった。
しかし、そこにはネグロ川が横たわっていた。トラックに積んだ生産物を降ろして船に積み、マナウスで荷を下ろして、またトラックにー。人件費は嵩み続けた。
「だからって市場で高い値段取れない。大変だった」。野地さんと宍戸さんは声を揃える。
組合の問題もあった。それまで任意組合を運営してきたが、マナウスで正式に商業行為をするために法定組合に改編する動きが起こった。
日本人だけで作る予定だったが、農地改革院(INCRA)の直轄である連邦植民地だったため、組合員の半数をブラジル人が占める必要があった。これには多くの日本人が反発した。
「収益の割合は日本人とブラジル人じゃあ十対一なのに、飼料の値段はは同じ」「日本人が頑張って、得をするのはブラジル人だけ」―。
結局日本人有志で六〇年代の終わりには共同で船を購入し、運搬を行なうようになる。
「(飼料用の)ミーリョを一トン貸しても返さないブラジル人との組合活動は、アレルギーですよ」と宍戸さんが言えば、「だから自分たちでやったんだけど…大分損したね」と野地さん。
七三年にトラックを積載できるバルサ(輸送船)が運航を始める。翌年にはINCRAから地権が交付、二十年の苦闘の末にようやく〃地主〃に。
七五年には海外移住事業団(現JICA)の援助を受け、自治会館も建設され、文化活動も進んだ。
宍戸さんは言う。「僕たち第一陣の同船者でアマパーやバイーアのウナに入った人は大変だったと思いますよ。(ベラ・ビスタは)発展は遅れたけど、マナウスっていう都市が近くだったから」(つづく、堀江剛史記者)
写真=(上)移住者らが共同購入した船。生産物の積み下ろしにかかる人件費に喘いだ/第1陣入植の宍戸宏光さん、妻正子さん。自宅の梁は開拓で自ら倒したものだ