ニッケイ新聞 2009年6月16日付け
前回の日本人奴隷連載の時、ポルトガル人やスペイン人が江戸初期まで日本に住んでいたことを書いた。実はその当時、混血児が多数生まれたが、幕府は外国人父親と子を共に国外追放した。
「一六七三年には、ポルトガルやスペインなどの南蛮人を父親に持った混血児たちが、日本の長崎の母と別れて父親に従ってマカオに流されている。この時の混血児の数は二〇〇人近くであった…」(『混血児』一七頁、高崎節子、同光社磯部書房、一九五三年)。さらに「紅毛人や南蛮人を父や祖父に持っている混血児は日本中に一人も残してはならないと、きびしく布告して、若しこのような子供を隠してでもいることがわかった時には、斬罪に処すとまでおどしている」とある。
良くも悪くも今のコロニアなら、メスチッソは当たり前すぎて誰も驚かない。だいたい混血児を追放するならブラジルに何人の国民が残るのか。
このような混血を忌み嫌う繊細な価値観を染み込ませた日本移民が、何も知らずに飛び込んでいった新大陸は、旧大陸をモデルにして全てを作り直す、残酷なほど壮大な実験場であった。
そこに適応する過程で否応なく、どれほどの血と涙が流されたか…。
移民はその哀切の想いを「ことごとに夫よ毛唐と言うなかれ吾が姓吾が血を継ぐ孫の母(小閑俊枝)」「血をつなぐ同じ愛しき孫なれど碧き瞳の子は抱きにくかりし(岩田要)」などと詠み、文芸作品に昇華してきた。
「ヨーロッパ人の到来によって、南北アメリカ大陸は大規模な住民の入れ替えという人類史上まれにみる実験を経験したことで知られる。しかも住民の入れ替えは、新たな動植物の移植と平行して進み、大胆に言えば、アメリカ大陸の自然環境から生活環境に至るまで、大きく変貌させたのである」(『近代ヨーロッパの探求〈1〉移民』二八九頁)
先住民にポルトガル人、黒人、欧州移民、そして日本移民などが混ざることでブラジルには新しい混血人種が生まれている。人だけでなく、イタリア移民が祖国のブドウを持ち込んだように、欧州移民は旧大陸から多くの動植物を持ち込んだ。
もちろん日本移民も数々の野菜などの品種を持ってきた。岡本寅蔵によってスリランカからレジストロに持ち込まれた茶の苗木、松井丙吉が日本からパラナ州ウライ市を中心に導入したラミー、上塚司がインドから種子を取り寄せて尾山良太が優良種を発見したジュート、臼井牧之助氏がトメアスーに持ち込んだピメンタなど、日本人がアジア各地から持ち込んだ品種は数知れない。
今年アマゾン移民八〇周年を迎えるトメアスー移住地では、日本移民は森林農業のような新しい農業形態まで発明した。アマゾンの生態系の多様性を畑に取り込み、多様な商品作物を同時に植えることで、段階ごとに収穫できる作物が変わり、最終的に森になるという独自の農法だ。
日本文化をベースにブラジルに適応したコロニアのあり方は、広い意味での日本民族の一つの姿であり、日本文化圏の世界における傍流といえる。
三一年前、大阪国立民俗学博物館の梅棹忠夫館長は移民七十周年シンポジウムの基調講演「われら新世界に参加す」の中で「文化的伝統は遺伝的血統の問題ではない。いかに混血が進もうとも、これらの高い資質は、家庭、学校、社会の努力を通じて、確実に次の世代に伝えることができるものがある。(中略)日系移住者の子孫達が、このような日本の伝統のよき点、優れた点をブラジル社会に導入する上に、きわめて有利な立場にある」と論じた。
その結果が今、現れてきている。西洋文明圏に生まれた日本的な共同体「コロニア」の貴重さは、いくら強調してもしすぎることはない。
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世界史の視点から見ると、大航海時代から始まった黒人奴隷の輸送や、産業革命以降に本格化した洋を越える移民の流れという「人類の大量移動」により、「サルバドールはアフリカ大陸以外で最大の黒人都市」に変貌し、サンパウロ市は「世界最大のポ語話者の都」となったように、「サンパウロ州は日本以外で世界最大の日系人集住地」となった。
移民の日常はとんでもない挑戦と実験の連続だ。日本史の目盛りでは計りきれない大きな時代の流れに、結果的に参加してきている。
この百年間の意義は、まだ十分に検討し尽くされていない。この特別な一世紀を「壮大な民族的実験」と呼ばずして、なんと表現するのか。(第一部終わり、深沢正雪記者)