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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【エフィジェニオ・デ・サーレス編】=(下)=教室にタランチュラ!?=昨年の50周年で決意新た

ニッケイ新聞 2009年6月24日付け

 自治会長である宮本倫克さんの案内で自治会館の二階にある日本語学校を訪れた。現在の生徒数は二十四人、他地域に違わず、非日系の学習者が多いようだ。
 「辞めようかとも思うけど、まだ続けるでしょうね」と笑うのは、約三十年間、日本語を教える木場克子さん(68、二世)。サンパウロ州サントアンドレー出身。
 十三歳のとき、日本へ一時帰国、十八歳でブラジルへ再渡航した帰伯二世だ。父佐藤義一さんは教育熱心だったという。
 「日本語を無くしてはいけない。子供のために尽くしなさい」と教えられた。以来、公立学校で四十三年間教壇に立つ傍ら、日本語教育にも努めてきた。
 勉強し始めて三年目というリマ・ジェシカさん(18)は、「日本語を勉強するのが大好き」とはにかんだ。
 授業をしばし見学していると、天井の隅に黒いものが。目を凝らすと、何とタランチュラ。
 驚きつつも歩を進めると、「近づくと威嚇のために小さなトゲを飛ばして痛いから、近寄らない方がいいよ」と宮本さんが声を掛ける。生徒たちの笑い声が響いた。
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 宮本さんは二十七万羽を飼う移住地最大の養鶏農家だ。農場内で卵を梱包する容器も製造、州道からは倉庫に書かれた「GRANJA MIYAMOTO(宮本農場)」の文字が目立つ。
 隣に建つ〃卵御殿〃ともいえそうな豪奢な家に招き入れられた。
 「移住してからは、色々ありましたよ…。『今苦労したら年取って楽できる』って、ずっと心の中で念仏のように唱えてました。だから今は極楽」と笑うのは、宮本さんの母きみ子さん(88、北海道)だ。
 石川県出身の竹一さん(九五年に七十九歳で死去)と結婚した。日本での生活を「主人の叔父にあたる人が材木問屋やっていたんだけど、その奥さんがうるさい人でね。息が詰まりそうだった」と語る。
 現在のきみ子さんの楽しみは花を活けること、そして毎日の日課は敷地内の清掃だという。「ただ歩いたら、もったいないから」と煙草の吸殻やゴミを拾って歩く。
 「最初は従業員らの子供らに『どこの乞食がきたか』って笑われてたんだけど、今はみんなくっついてきて手伝ってくれますよ」と嬉しそう。
 「そんな話を日本にいる孫にしたら、これを送ってくれてね」。そう火箸をかざして見せた。
 米寿を迎えたきみ子さんを囲み、五月二十日にマナウス市で家族を中心に約五十人が祝った。
 「幸せです」―。新調した衣装を手に、穏やかな笑顔が広がった。
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 「主人とは結婚するとき初めて会ったんですよ。もちろん会える距離でもないしね」
 農場ではドナ・テレーザと呼ばれ、使用人からの信頼も厚い妻(旧姓浜口)照代さん(61、熊本)はアクレ州のキナリー移住地の出身。
 移住事業団の職員の紹介で二十一歳のとき、エフィジェニオ・デ・サーレスに嫁いだ。
 十一歳で移住、「地味がよく、肥料がなくても稲が二メートルくらいになって穂がつくと倒れるほどだった」。
 しかし、結婚したころはマラリアや交通の不便さの問題が重なり、「すでに三家族しかいなかった。少ないところから一人抜け二人抜けして淋しかったですよ」と話す。
 現在もキナリーに八十三歳の母や兄弟が居住、三年に一度は里帰りするという。
 「移住地の苦労はどこも一緒。でも、ここはまとまりがいいですよ」。
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 昨年六月、「入植五十周年式典」が行なわれた。日伯両政府関係者、石川県金沢市からは芸能使節団が駆けつけ、三百人以上が半世紀の歴史を振り返った。
 自治会は、日本政府の草の根無償資金で地元ブラジル人も通う診療所を設置、市役所と共同経営を始めた。
 「自治会の後継者が今の問題」と宮本さん。移住地近くでは現在、ゴルフ場の建設が行なわれている。
 「昔を考えれば、本当に便利になったよね」。入植当時の思い出を噛み締めるように小さく頷いた。(おわり、堀江剛史記者)

写真=(上)「今は極楽」という宮本倫克自治会長の母きみ子さん(右)、キナリー移住地から〃花嫁移住〃した(旧姓浜口)照代さん/日本語学校で教える木場克子さん(右から2番目)。自治会会館の教室で5月2日撮影