旅行三日目の五月二十七日、朝から雨で肌寒い。同地では長い間雨が降っておらず、移住地の農協組合員たちにとっては待ち望んでいた雨だったようだ。
ADESCの一行は早速、サンタクルス市内の観光へ向かった。
サンタクルス・デ・ラ・シエラ市は約百六十万人の人口を持ち、国内総生産の三〇%を担う。同市は円状のピライ川で囲まれた、三重のリング状の街。バスで市中心部から外へ向かうとよく分かる。スペイン人入植の歴史を漂わせる街並みだ。
観光の後、一行はサンタクルス中央日本人会(島袋正克会長)を訪れた。同会の訪問は急遽スケジュールに組み込まれたものの、島袋会長、安仁屋敬書記担当理事が快く出迎えてくれた。JICA、創価学会などが出資したという同会館は、教室、食堂、診療室、五百人収容の体育館を備えている。
島袋会長によれば、「サンタクルス市には、サンフアン移住地やオキナワ移住地に一度入植し戻ってきた人が多い」という。
しかし同地日本人入植の歴史は古く、最初のサンタクルス入植者は、ペルー第六回移民がボ国リベラルタを経由した後、一九一四年に同地へ辿り着いたことに遡る。三七年の在リマ日本領事館の移住地適地調査記録によれば、当時十三人の日本人が在住していた。
そして戦後、五四年に沖縄移住地、五五年にサンフアン移住地への入植が始まった。その中には、サンタクルス近郊に土地を求めて定住した人もいたという。
五六年十月十二日にサンタクルス日系人会が発足、六五年に現在の名称に改称し、六七年に法人格を取得した。現在の会員は百八十世帯(計七百四十人)で、婦人部、青年部から構成される。同会の日本語学級にはボリビア人も含め、約百三十人の生徒がいるという。
会館を見学し、ADESCから様々な質問が飛んだ。栖原マリーナさんは、「皆サンタクルスにこのような大きな日系組織があるなんて知らなかった」と話し、「日系人が活躍していると知って嬉しい」と伝えた。
◎
その後、買い物へくりだした一行。一ドルは約七ボリビアーノ、現地ではボリビアーノとドルのどちらでも使えるところがほとんどらしい。
ドルで払うと、お釣りはボリビアーノで返ってくる。ただし、古くてくしゃくしゃのドルはなぜか受け取ってもらえない。
石が安いとのことで、一同宝石店へ。買い物を済ませ満足気にバスに乗り込んだ。
この日は同国の母の日にあたり、昼食のボリビア料理レストランは家族連れで溢れていた。店員たちによってお母さんたちに歌われるセレナータが聞こえてくる。
肉料理を頼むと、内臓など大量の牛の部位が鉄板にのせられて運ばれてきた。「ブラジルの料理に似ているようだが、辛い」という評価。
シュラスコと一緒に食べるのは、アロス・コン・ケッソと呼ばれるクリームチーズで煮込んだお粥状のもの。一同さすがに食べ疲れた様子。
昼食を終え、次の目的地オキナワ移住地にむけて出発した。
「このバスの中には計何年分の経験が乗っているか」――道中、バスの中でゲームが始まった。皆の年齢を合計したら何歳になるか当てようというもの。電卓を持ち出す人もあり、車内は賑わった。
答えは、最年少の記者を含め、千四百八十四年分! (つづく、長村裕佳子記者)
写真=(上)ボリビア料理のレストランで/島袋会長らとADESCの一行。サンタクルス日本人会館前で