ニッケイ新聞 2009年7月7日付け
上塚司は調査団をヴィラ・アマゾニアに残し、森林伐採や宿舎建設などに当たらせた。
一九三〇年に開校していた国士舘拓植学校(後の日本拓植学校)を卒業した四十七人は、翌三一年四月、横浜港から「さんとす丸」に乗り込む。
植民地指導者―高拓生―の育成を目的とした学校の存在は、日本近代史上に残る類稀な例だったといえよう。
日本・ブラジル双方で事業は進んだ。
ヴィラ・アマゾニアには測候所、農事試験場、病院も設けられ、発行された報告書は日本に定期的に送られた。
今風に言えば、〃アマゾン開拓総合センター〃の総本山となったアマゾン産業研究所跡地には現在、上塚の名を冠した学校がある。
第一回高拓生入植から七十五周年の節目にあたる二〇〇六年に開校した「ヴィラ・アマゾニア農業学校ツカサ・ウエツカ(Escola agricola de Vila Amazonia Dr TSUKASA UYETSUKA、ルセニウダ・ベルチオ校長、生徒数千三百)」だ。
同年十月二十一日の上塚の命日には、上塚の孫芳郎氏、高拓生二世らでつくる「高拓会」メンバーら約百人が出席、「高拓生入植七十五周年」が盛大に執り行われている。
開校当時六百人だった生徒は約二倍に増えた。しかし、校名の由来を知る人は少なく、「日系の名を持つ生徒は二人ほど」(学校関係者)だという。
同式典に出席した武富マリオ氏は、「当時を知っている人がいるうちに証言を残したい」と、二〇一一年の入植八十周年までのセミナー開催を考えている。
学務担当のフェルナンド・オリベイラさん(72)もそれに同調、「子供たちに地元の歴史を教える必要がある」と握手を交わした。
授業参観後、子供らの歓声を耳朶に感じながら、校門前の大きな水溜りを避け、マリオ氏とバイクで学校を後にする。 わずか三メートルの赤土の道を走る。青い空が広い。粗末な服を着て、エンシャーダを担いで歩く老人。
強い陽射しで焼けるのか単なる水垢か、黒く変色した板で作った掘っ立て小屋。鉄条網に干された洗濯物、丸裸で鶏を追いかける子供、昼食の魚を洗っている主婦。
典型的なアマゾンの生活。約八十年前、高拓生らも同じような風景を見たのだろうかー。
「ここが気に入ったかい?」。マリオ氏と八紘会館の再建を推進するヴィラ・アマゾニア住民協会のマルコス・リマさん(31)が案内のため、共同墓地への上がり口で待ってくれていた。
わずか百メートルばかりの山道を登る。墓碑に日本人の名前を探していると、マリオ氏が「そこじゃない。日本人の墓地は向こうだ」と森を指差す。完全なジャングル。高拓生やその家族が埋葬されたところだという。
「六十くらいの墓があったけど、遺族が持っていったりね。何度か草を刈ったりしたりもしたんだけどね…」と何故か申し訳なさそうに話しながら、リマさんは森に分け入っていく。
こんなところに墓石があるのだろうかー。むっとした熱気。体中にまとわりつく蚊を手で払いながら歩を進める。リマさんに示されたのは、蔦が絡んだ胸あたりまである石。
文字は読めず、墓石かどうか判別はできない。もしそうだとしたらー歴史をも溶かすようなアマゾンの自然に圧倒されるるばかりだ。
マリオ氏の呼ぶ声がする。「AQUI DORME(ここに眠る) AKIO OTI」と書かれた墓碑。わずか五カ月たらずでこの世を去っている。しばらく手を合わせ、墓地を後にした。
マリオ氏が思い出したように言う。「この近くで日本人のモンジェ(僧侶)が亡くなったんだ。今は増水してるから見えないけどね」。
『日本海外移住家族会連合会』の元事務局長としてブラジル移住地を訪問。その後、無縁仏の〃すすり泣く声〃を聞いたことから、供養のため仏門に入り、ヴィラ・アマゾニアで入水自殺した藤川辰雄氏のことである。(つづく、堀江剛史記者)
写真=(上)「ここに眠る アキオ・オチ」の墓碑。1939年に生まれ、わずか5カ月で亡くなっている/06年に開校した「上塚司学校」。7~40歳まで1300人が学ぶ