ニッケイ新聞 2009年7月14日付け
「お互い学生だったし、仕事も知らずに来たからね…。主人にもこぼせなかった辛いことばかり。ついて来た女が悪いですよ」。
高拓生四期生の伊原只郎(しろう、長野県、九八年に八四歳で死去)の妻清子さん(93、愛知県)はそう言葉少なに語る。
サンタ・ルジア、ワイクラッパでジュート栽培に従事した。十一人の子供に恵まれ、現在マナウスで次男の拓次さん(61)と住む。「週末に家族が集まるのが楽しみ」という。
一九三四年の渡伯以来、一度も帰国していない。清子さんの口からは、楽しい思い出は聞けなかったが、開拓地でよく演奏していたという「高拓校歌」と「蛍の光」をハーモニカで吹いてくれた。
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ジュート繊維を乾燥させ、圧縮する工場がパリンチンスに唯一残っている。工場を訪れると作業に数人があたっていた。
ベレンを経由、カスタニャールで麻袋に加工されるという。
「この大水でどうなるか…出荷量は半減するかも知れないわね」。工場の管理を行なうファッチマ・ベステスさん(27)によれば、昨年同地から出したジュートは、三百九十五トン。
今年は六百トンを見込んでいるが、歴史的な水害で伐採作業が遅れ、「予測が立てられない」と話す。
かつては川に面して立ち並んだ工場に沿って線路が敷かれ、ジュートを船に積み込む風景が見られたという。
戦前の最盛期はパリンチンス地域から約五千トンを産出。戦後になってもアマゾン全体で数万トンの生産を維持していた。
しかし、輸入自由化で国外から廉価なジュートが流入、化学繊維が主流になるとともに、ジュート産業は凋落の一途を辿った。
ファッチマさんは、武富マリオ氏が語るジュート発見の歴史に目を見開き、「初めて聞いた」。ヴィラ・アマゾニアで九月二十二日に竣工が予定されるジュート記念碑にも協力姿勢を見せた。
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日本が大陸に進出、満州国建設に乗り出したのと時を同じくして、アマゾンに〃平和的〃理想郷を築こうとした上塚司は、東京都渋谷区の自宅で七八年、八八歳で亡くなった。
作家の山根一眞氏は、その壮大な夢をノンフィクション作品「セルバ・ヴェルデ」(山根一眞著、一九九〇年から九二年に角川書店『野生時代』に掲載)にまとめている。
同作品によれば、晩年上塚は、自宅の壁にかかっていた日本高等拓植学校の油絵を指して、「昔、こういう学校があったんだよ」と孫娘に話して聞かせていたという。
現在、パリンチンスは奇祭「ボイ・ブンバ」で世界的に有名となっている。その会場となるブンボードロモの前に日本公園がある。一九八一年、第一回入植から五十周年を迎えた高拓生らが中心になり、建築した。
取材を終え、パリンチンスを発つ朝、その中央に建つ上塚司の銅像の写真を撮るため、バイクタクシーで向かった。
「誰か知っているかい?」との問いに運転手は笑いながら首を振り、「次は六月のボイ・ブンバに戻ってこいよ」とヘルメットをかぶった。
朝七時の出発時間を大幅に遅れたサンタレン行きの船を待っていると、マリオ氏が見送りにバイクで現れた。
「このパリンチンスも日本人がいなければ、どうなっていたか分からないんだ。忘れられている歴史を何とかして残していきたい」。
最初の晩同様、固い握手を交わし、ようやく到着した船に乗り込んだ。パリンチンスの港がゆっくりと離れていく。マリオ氏の姿も小さくなり、そして消えた。(おわり、堀江剛史記者)
写真=(上)パリンチンスに唯一残るジュート工場の責任者ファチマさん。「日本人が発見したとは知らなかった」。白い袋に入っているのはジュートの種子。もちろん「尾山種」だ/高拓生の妻、伊原清子さん。ハーモニカで高拓校歌を吹いてくれた