ニッケイ新聞 2009年7月16日付け
一九三二年一月二五日のセー広場の大集会以後高まった憲法擁護、憲政議会開催への声は、三〇年の革命で大統領就任を妨害されたプレステス追放への抗議も込め、真の民主化憲法制定を求める活動へと繋がった。それが七月九日の武装蜂起に至ったきっかけの一つは、五月二十三日の青年達の死だった。
一九三〇年の革命とその後の統治の仕方はサンパウロ州攻撃として州の自治を願う民の声で、中央の息のかからない人事を試みるペドロ・デ・トレード執政官に、軍政支持と新憲法反対を謳った文書を提出した革命派将校が度々干渉。それを知り、サンパウロ市セントロの革命本部に押し寄せた活動家青年五人が銃弾に倒れたのだ。
この五人は頭文字でMMDCまたはMMDCAと呼ばれるが、この日トレードは人事を完了し、新州政府が誕生した。
中央暫定政権への反発の強まる中、三〇年の革命でヴァルガス支持の民主党も、民主化憲法制定を掲げ共和党と提携。他三州からの共闘の約束とイジドーロ・ジアス・ロペス将軍らの参加を得たサンパウロ州は、トレードの電報「民衆を既に抑えられず」をもって武装蜂起した。
しかし、実際には、マラカジュ州(現南麻州)やミナス州、南大河州は全州挙げての共闘ではなく、各州での散発的な戦いとなったため、サンパウロ州は孤立。革命の志士二〇万人中、四万従軍のサンパウロ州に対し、一〇万人の政府軍は、サントス港封鎖を含む包囲作戦を展開した。
市民からの物資供給のみが頼りのサンパウロ州では、九月半ばには武器弾薬も底をつき、敗戦とサンパウロ市占領は時間の問題と考えたサンパウロ州軍が九月末に降伏。革命戦争の終止符は十月二日に打たれた。
その後、ヴァルガスはサンパウロ州と和解。数回の交渉後、サンパウロ州出身の文民執政官アウマンド・デ・サーレス・オリヴェイラ氏が任命された。また、民主化の動きも、三二年の選挙法制定、三三年の憲政議会選挙、三四年の新憲法制定と続いた。
戦いには負けたが新憲法制定を勝ち取ったサンパウロ州にとり、護憲革命は誇るべきもの。その意味で、七月九日を休日とし、イビラプエラの塔も建立。七七年後の今も憲法擁護のために戦った志士の功績を称え続けている。(おわり)