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「アマゾンの歌」を歩く=(5)=足に残る開拓の苦労

ニッケイ新聞 2009年7月23日付け

 入植当時、七歳だった姉三江、二歳の元さんを抱えた山田家の労働力は、義一、スエノさんだけだった。
 開拓に加え、育児や家事も切り盛りしたスエノさんの苦労は、「小さかったですから、当初のことは覚えておりません」と話す元さんの足に残っている。
 日本人の多くは足が歪んで―いわゆるO脚―いるが、元さんの場合、極度に曲がっている。
 「怪我したのかって言われるんですけど、そうではなく、母の背中にくくりつけられていたからですよ」
 預ける人もいなかった植民地では、乳飲み児を背負い、屈んだ格好で稲の植付け、刈取りなどの農作業を行なった。垂れ下がった骨の柔らかい幼児の脚は、母親の体の形に沿うように成長していく。
 「ペルナ・デ・パパガイオ(オウムの足)とかアリカッチ(ペンチ)ってブラジル人に馬鹿にされてね。だから、妻(豊江さん)には、『絶対に子供は背負うな』ってよく言ってました」
 元さんはスエノさんの背中を下りて間もなく、働き手の一人として家族を支える。小学校に行きながらも、農作業を手伝った。
 週末には、両親と刈ったサトウキビをジュース(ガラッパ)にし、空き缶に取っ手をつけた容器を持ち、植民地の角で声を張り上げた。
 蹄鉄の技術を義一さんから学び、スエノさんが作った味噌や醤油を売りに歩くのもまた、元さんの仕事だった。
 「いやあ、もうね、本当にこき使われましたよ。親父は軍隊上がりでしょう。厳しくてねえ。だけど、貧乏だとは思いませんでした。周囲みんながそうなんだから。反抗する気持ちもないではないけれど、『元も子もなくなる』って自分を慰めてましたよ」
 山田は畑仕事の合間をぬって、水車小屋を建て始めた。モミを自分で精米して売り、そこから出る小ぬかを肥料に当てようという計画だった。
 アカラの土地は、山焼きをした年は作物もできるが、灰分がなくなると、労力をつぎこむかいもないほど収穫が落ちる。うわさに聞く南伯の開墾後何十年かは肥料がいらない土地とは、大違いである。それに北伯は米や野菜の値が安いので、肥料を買っては採算が取れなかった。

 すでにトメアスー内には、イピチンガとアライア両地区に二カ所の精米所があったが、クアトロ・ボッカスから約六キロのあったジャングル内の小川をせき止め、新たな精米所を作ることになった。
 「その頃は機械なんてないでしょう。二年かけて堤防を作りましたよ。直径四メートル半もある水車を回していました。一俵(六十キロ)で六割五分が米。残りがブタの飼料になる小米、肥料になるぬか。当時は精米所の持ち主がそれをもらえた。これが馬鹿にならなかったんですよ」
 このホエザルが鳴き叫ぶジャングルのなかに建てられた精米所に、当時わずか十三歳、小学校を終えたばかりの元さんが一人で住むことになる。
 (堀江剛史記者)

写真=精米小屋までの道に立つ元さん。「馬車でよく通ってましたよ」と当時を振り返る。現在でも悪路だ