ニッケイ新聞 2009年7月24日付け
働き詰めの毎日を一家は送った。その間にも次男允、和子と昭(赤痢で死去、享年一)が誕生、スエノさんは育児と雑事に追われた。
ある日、水車小屋で精米が遅れているにも関わらず、義一さんは請け負い仕事の必要があった。重労働が家長の肩にのしかかり、働き手の少なさを実感していた。
「父さんが帰らなきゃいけないんなら、僕がここに残ろうか」
なに? という顔で、山田は息子を見詰めた。骨の細い体つきで、十四歳という年より幼く見える元が、澄んだ目で父を見上げていた。
「お前、一人でここに残れるか」
意外であった。人家のある地区からは、歩いて半日もかかる水車小屋である。小屋の周囲はわずかに樹を伐り拓いてあるが、そこから続く細々とした道さえ、左右からおおいかかる巨木の茂みに太陽の光をさえぎられて、うす暗い。―この子はここに残って、一人で泊まれるというのか―。
「大丈夫だよ。精米も一人でできるし…本も持ってきたから、たいくつしないよ。タローもいるし…」
彼はタローと名付けたオウムをつれてきていた。
「十三歳だったと思います。オウムがいたことは覚えてないですが、本は父が取り寄せてくれた小学一年生(小学館の学年誌)の付録をよく読んでいました」
精米の仕事は、一俵分の米を搗くのに四十五分ほどかかる。水量の少ない乾季を除き、朝から晩まで水車を回しつづけた。
合わせて精米所の周囲で米作を行なった。元さんは日曜日に精米所に行き、土曜日に十字路の自宅へ帰る生活を約十年間、続けた。
「夜はホエザルが鳴いてね。そりゃあ、恐ろしかったですよ」
水車小屋があったところは、十字路から北に約三キロの地点を西へ三キロの地点。戦後はディーゼルエンジンを使っての精米も進み、ピメンタブームが始まったこともあり、次第に行くことがなくなったという。
記者のたっての願いで「五十年は行っていない」という水車小屋に同行してもらうことになった。
真っ直ぐ伸びる赤土の道。両側には鬱蒼とした森が広がっている。
「昔はこの道で競馬をしていたんですよ。馬券も売って、面白かったですね」。
しばし走らせた車を道沿いに止める。粗末な小屋から出てきた老人は、昔の使用人だという。小屋のあった場所を尋ね、二言、三言交わし、森の中に入っていく。
呆気に取られ、しばし待っていると、「ここじゃないですね。もう少し向こうだと思います」
この土地はかつて山田家のピメンタやカカオ園だったが、現在は牧場になっており、風景も一変している。
当時の記憶を辿りながら、踏み固められた重粘土の道で、「この先ですね。間違いありません」と元さんは、聳え立つパラー栗(カスターニャ・デ・パラー)を見上げた。六十年ほど前に植えたものだという。
「ここらへんは地味がいいんでよく育ってますね」。パラー栗の実は、十五センチほどの円状の固い殻のなかに詰まっていてかなりの重量がある。
「ココの実は昼夜構わず落ちますが、これはよくしたもので夜にしか落ちないんですよ。頭に落ちたとか怪我したとかは、聞いたことないですね」。そう言って歩を進めた。 (堀江剛史記者)
写真=60年前に植えたパラー栗の木の下に立つ元さん