2009年7月25日付け
二〇〇八年秋以降続く経済危機により、在日ブラジル人の多くが失業することとなった。政府の帰国支援策により三万人が帰国したといわれている。自費で帰国している人もいるため、実際にどのくらいの人たちが帰国しているのかはわからない。学齢期の子どもたちの実数も把握しきれていない。
義務教育就学年齢にあるブラジル人の子どもは約三万人といわれてきた。そのうちの八千~九千人がブラジル人学校に通っていたが、失業で収入が途絶えたことにより月謝が払えず、子どもたちをブラジル人学校に通わせることができなくなった親も多い。
日本の学校になじめずにブラジル人学校に転校してきた子どもたちを、再び日本の学校に通わせて辛い思いをさせるよりは、しばらくは家で待機させる親もいるだろう。
月謝不払いのまま、ブラジル人学校に通わせる親も少なくない。学校側としても、教育的見地から、月謝の不払いや遅滞で即座に子どもたちを学校から追い出すことはしづらいし、したくはない。
教師の給与を減額するなどで対処して、何とか学校を存続させられるよう、努力に努力を重ねている。そのようななかで、月謝の不払い分を取り返そうと児童生徒宅に強盗に押し入り、逮捕された校長も出てしまったことは残念でならない。
日本ではブラジル人学校を選択することに対して、否定的な見方をする人が多い。日本語教育を重視していない学校が多く、ブラジル人学校を卒業しても日本の学校(特に大学)には進学しにくいことから、親と同じ単純労働者になるのがせいぜいであるという見方である。
こうした考え方は、ブラジル人の滞日がこのまま続くことが前提となっている。しかし、今回のような事態を誰が予測しただろう。
帰国を余儀なくされてもブラジルの学校に適応しやすいのは明らかにブラジル人学校に通っていた子どもたちだろう。両国を生きる人々にとっては、ブラジル人学校の選択というのはリスク回避の手段の一つである。もちろん、日本にとどまる就学者のために、ブラジル人学校はさらに日本語教育に力を入れるべきであることは言うまでもないが。
ブラジル人学校は地域から孤立しがちであり、「何をやっているのかわからない」という住民の思いもなかなか払しょくできない。学校のイベントの招待状を生徒と一緒に近隣住民に手渡しに行っても、その場で受け取りを拒否されることもある。
生徒には大変悲しく辛い思いをさせてしまうが、「現実」を見せることもまた教育であると思い十三年間続けている。このようなブラジル人に対する拒絶的な反応にもかかわらず、ブラジル人集住地に住む日本の子どもたちには自然に国際感覚が身についているという「現実」もある。
過日行われた大泉町とN県の少年サッカー交流試合での出来事。来町したN県の子どもたちは、町の様子に驚きを隠せない。商店の看板やゴミの集積所にある立看板などにある外国語の表示の多さに驚き、試合後の握手ではモジモジと照れた様子、握手に慣れていないようだ。
試合中は真剣そのものだった彼らも、ひとたびシュラスコ(ブラジル式バーベキュー)が始まると、物珍しさに歓声をあげ、試合の勝ち負けを忘れてわれ先にと肉を頬張る。
一方、大泉町(町人口の一二%がブラジル人)の日本人の子どもたちといえば、外国語で書かれたものを見たり、外国語を話していたりする人と道で擦れ違うのは毎日のこと。生まれた時から目にする町の日常的な風景だ。シュラスコも珍しいものではないし、西洋のあいさつとして一般的な握手についても、自然と手が伸びる。
ブラジル人が多く住むこの町に生まれ、育つこと。それは、グローバル市民としての素養が自然と身についていくことを意味するのかもしれない。
日本にも様々なルーツを持つ人々が暮らし、世界には多くの国と言葉があることを、「頭」だけでなく「体」で、「心」で受け止められる子どもたちに育っていることを、今回の交流試合で図らずも知ることとなった。
この町に生まれ、育つことが子どもたちの将来をどれだけ豊かにしていることか。時代の先を行く大泉町の日本人、ブラジル人の子どもたちに開かれた可能性に改めて気づかされた。
日本では「日本語を学んでいない」と子どもたちが非難の的となり、ブラジルでは「ポルトガル語が身に付いていない」とブラジル人の子どもたちの扱いに手を焼いている。そして、結論はおきまりの「親の姿勢がなっていない」。
しかしながら、この結論だけで話を終わらせてはもったいない。ブラジル人の子どもたちも日本の子どもたちも、「異なるもの」と日常的に触れてきたその経験をプラスに捉えられるよう知恵を絞っていくことこそ、両国の良さと悪さを経験済みの私たち大人に課された役割ではないだろうか。思考と試行と重ねつつ奔走する日々である。
高野祥子(たかの・しょうこ)
NPO大泉国際教育技術普及センター理事長。1945年、中国天津市日本租界生まれ。58年に家族と共にブラジル南大河州に移住。89年に帰国。91年に大泉日伯センタ―設立。16年間、警察の通訳として、多くのブラジル人未成年者が犯罪に走るのを見て、彼らに勉学の場をと01年に同NPO法人を設立。以後、「ブラジル青少年フェスティバル」や「親子日本語教室」等を開き、センター運営に町民100人以上が関わるなど多文化共生の実践の場に。