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「アマゾンの歌」を歩く=(8)=戦時中は日本人収容所に

ニッケイ新聞 2009年7月28日付け

 一九四一年十二月、日本軍の真珠湾攻撃により、アメリカとの戦争が始まった。伝えられる各地での日本軍の華々しい戦果。マラリアや困窮生活が長く続き、行く末への果てしない不安を抱いていたトメアスーの人々は愛国心を掻き立てられ、狂喜した。
 精米小屋にいた元さんは、戦争当時の様子をよく覚えていない。「ですが、熱心な人がいて、日本軍がどこを攻撃している、どこの都市が陥落したという情報は常に入ってきていました」。
 翌年一月の国交断絶後は、ブラジル政府は日本人三人以上の集合、日本語教育などを禁止する。
 「確かに苛められたってことなんでしょうけど。社交家だった母がブラジル人とも仲良くしていたので見つかってどうのこうのっていうのはなかったですよ。港のブタ箱に入れられた日本人もいたそうですが」
 四二年八月にベレン沖でブラジル商船がドイツ軍潜水艦に撃沈(連合軍側の陰謀とする説もある)されることでトメアスーの生活は一変する。
 怒り狂ったベレン市民の焼き討ちに遭った多くの日本人が逃れてきた。パリンチンスなどアマゾン中流域でジュート栽培(黄麻)に関わっていた高拓生らも移送された。
 山田家はベレンの二家族を受け入れた。「着の身着のままでねえ。大変だったようです。高島さんと渡部さんという家族七人でした。一年くらい仕事を手伝ってもらいました。我々も助かったんですよ」

 スエノはつと手を伸ばして元の腰のあたりをひとつたたき、はね返ってきた固い音に、二人は顔を見合わせて笑った。元はふろしきに包んだ日本語の教科書を腰にしばりつけ、その上にシャツを着てかくしているのだった。

 義一さんは教育熱心だった。禁じられていた日本語教育は各家の敷地に建てられたバラックで行なわれた。精米所で働いていた元さんにも、日本語を教えた。

 彼は夜の時間を割いて、元に日本の文字を教え、一緒に歴史の本を読んだ。日本語を理解することによって、元は日本人の精神を持つようになる―

 「戦前の子供はみな読み書きできましたよ。あの頃は一日十二時間労働。それでも『最低三十分は勉強しろ』って。マラリア蚊がいるから、蚊帳の中での勉強だけど、カンテラでやるから蚊帳が真っ黒になってねえ。『二宮尊徳を見習わんといかん』ともよく言われました」
 終戦、そしてスエノさんの突然すぎる死――。

 日本の敗戦を契機として、アカラの人々の多くは永住を決意した。元は精米所に戻り、山田は未明から耕地へ出て、山田一家はスエノの抜けた場所に深い穴のような暗さを残しながら、平常の生活に戻った。何事があろうとも、まず働かなければならない。

 「元々、永住決意で来たと思います。そのために婿をもらうよう姉を広島に置いてきたんだから。父に直接聞いたことはありませんが」
 日本軍の侵攻で戦火が広がった東南アジアで胡椒栽培が下火になり、日本の降伏とともに独立したインドネシア(当時世界第一の胡椒生産国)が食料自給政策のため、胡椒を米に転作、胡椒の国際相場が急騰する。
 これが後に、トメアスーに巨万の富をもたらす下地となっていく。
   (堀江剛史記者)

写真=三人以上で話した日本人が入れられたというトメアスー港近くの元留置場跡。今年焼失したため、現在建築中