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「アマゾンの歌」を歩く=(終)=アマゾンの歌、その後

ニッケイ新聞 2009年8月1日付け

 『アマゾンの歌』の取材のため、角田房子氏がトメアスーを訪れたのは一九六五年末。―それから四十四年。トメアスーをめぐる環境は大きく変化した。
 作家が感嘆した整然と植えられたピメンタのみの畑はすでにない。
 六〇年代の病害の蔓延でピメンタ一本だった農法の見直しが図られた。続く不作、七四年の水害で受けた大打撃をきっかけに熱帯植物などの生産が増え、現在はアグロフォレストリー(森林複合栽培)のモデル地区だ。
 ジュース工場で生産するアサイーやクプアスーの加工品生産でも有名となった。
 もちろん、山田一家も大きく変わった。物語の主人公となった義一さんは、八八年に九十歳で亡くなった。
 元さんは九一年、日本にデカセギに行っていた長男旭さん、現在同居する四男亘(わたる)さんの誘いで豊江さんと訪日する。
 二歳での渡伯以来、六十二年ぶりの里帰り。二人の姉に再会することが目的だった。
 「生まれたところは藪になっていました。猫の額のような土地でね。ブラジルに来て良かったと思いました」
 その後、旭さんの働く工場に挨拶に行ったところ、日ポ両語が堪能であることを見込まれ、そのまま妻豊江さんとその会社で働くことになる。当時デカセギブームが到来、ブラジル人労働者と会社の軋轢も多かった。
 「ブラジル人、日本人両方の言いたいことが分かるでしょう。辛い時もありました」。休みの時は、書道を習った。
 「今の日本人に感じたことは、年寄りを大事にしない、物を粗末にすることでしょうか」
 通訳している姿がテレビで放映され、角田氏から連絡があった。「名古屋で会う約束をしたんですが、結局会えず仕舞。でも、著作を送って頂きました」
 その間、農園はブラジル人労働者に任せ、電話でときおり指示していた。九九年にトメアスーに戻った。
 「それがねえ…ちゃんとやっていなかったんですよ。勝手な投資をしていたりして。日本人に頼むことは出来なかった。長く働いていた十一人の従業員に退職金代わりに土地を分けて与えました。今は農業やっても深みにはまるだけ。二〇〇〇年には見切りをつけ、他の土地も売りました」
 かつて二百五十町歩を誇った山田家の土地は現在、住宅のある周辺のみとなっている。
 「原始林を開拓して畑を作ったんですから…断腸の思いでした。自分を疎かにして財産をなくした。今でも胸が痛いし、恥だと思っています。子供たちは継がなかった。ピメンタ景気のいい時に生まれて甘やかしたんでしょう。親爺が草鞋で頑張って、孫が靴はいてるわけですから…」。そう声を落とした。
 十字路近くにある『留安山 浄土真宗トメアスー本願寺』を訪れた。トメアスーの顔役的存在で、同寺の世話役を務めていた坂口陞(のぼる)さんが〇七年に亡くなったことから、元さんが後を継いだ。この土地も山田家が寄進したものだ。
 月に二回、お勤めを行なうほか、葬儀なども執り行う。今年九月にある入植八十周年慰霊法要の準備も大事な仕事だ。
 「昨年までにトメアスーで亡くなられた方は八百二十四人です」と過去帳をめくった。
 一九二九年九月二十二日、トメアスーに第一歩を刻んだ百八十九人の第一回移民で現在も健在なのはわずか二人。
 「ここは本当にいいところ。つくづくそう思いますね」。一家で築き上げてきた〃古里〃トメアスーをこれからも見つめ続ける。(堀江剛史記者)

写真=入植80周年の慰霊法要の準備に余念がない山田元さん。世話役を務めるトメアスー本願寺の前で