ニッケイ新聞 2009年8月15日付け
あの日は暑かった。正午の玉音放送を聞くため座敷に集まり「もんぺ」を穿いたおばさんらが滂沱と嗚咽していたのは今も鮮明に覚えている。子どもの頃なので「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ」で始まる終戦の詔勅の意味はわからない。ただー国民学校1年生だったので防空頭巾もかぶり、米空軍の機銃掃射も体験したので「戦争」は知っていた。近くを流れる大きな川に爆弾が投下され大騒ぎになったりもした▼「堪エ難キヲ堪エ忍ビ難キヲ忍ビ」の放送については、いろんな議論があったけれども、昭和天皇の決意は固く、鈴木貫太郎首相も初めての玉音放送に踏み切る。それでも陸海軍の一部が徹底抗戦を叫び、鈴木内閣も身命を賭しての実行であった。迫水久常書記官長は、昭和天皇が吹き込んだ原盤を日本放送局に運ぶ秘密命令を受け、一歩間違えれば死が待つ難業を成し遂げる▼あの放送は短波でサンパウロにも流れ(数は少ないだろうが)、同僚で先輩の三原寿紀さんも聞いた1人である。移民らの多くは、陛下がラジオで「玉音放送」するなど信じられないと思ったに違いない。旧日伯新聞の編集長だった故・一百野勇吉氏からも、当時のコロニア事情を交えながらあの放送について訊ねたことがるが、とにもかくにも複雑微妙な心境であったと話している▼昭和20年8月15日は軍国主義との訣別の日でもあった。本土防衛論を頑なに主張した陸軍大臣・阿南惟幾大将は、ポツダム宣言受諾後、抗戦派を慰撫し15日夜に割腹し、副官らの介錯を拒絶しての堂々たる幕引きであったのも心の片隅に留めたい。 (豚)