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カヌードスの乱は何故?=《1》=旱魃と飢餓が生んだ狂信=コンセリェイロに従う集団

ニッケイ新聞 2009年8月20日付け

 十八日本紙で、エウクリーデスの「奥地(オス・セルトインス)」はカヌードスの乱のことを描いていると書いたが、バイア州奥地のカヌードスがブラジル史上最大の流血事件の現場となったのは何故なのだろうか。
 カヌードスの位置するバイア州は、セルジッペ、アラゴアス、ペルナンブコなどと共にセルトンと呼ばれ、厳しい旱魃や飢餓に悩む地域。一八八九年の共和制樹立当時も、旱魃や低開発による貧困、農場からの強制的な排斥は、北東伯住民を悩ませ続けていた。
 旱魃や飢餓に悩む人々は、旱魃難民として北東伯州都などへ移動した人と、セルトンに残った人とに大別され、セルトン残留組は更に、大地主の用心棒となるなど社会体制や権力に順応する人、匪賊となるなど社会体制や権力に敵対、復讐する人、宗教に救いを求める人などに分かれた。
 このうち、宗教に救いを求めた人達の中から生まれたのがカヌードスの大集落であり、それを疎んだ人達の政治的、軍事的圧力の中から生じたのがカヌードスの乱だ。
 旱魃や飢餓に喘ぐ人々をひきつけたのはアントニオ・ヴィセンテ・マイロことコンセリェイロ。不幸な結婚生活で故郷のセアラから姿を消したコンセリェイロは一八七四年、托鉢僧としてセルジッペに姿を現す。
 世界の終末や救世主出現、地上天国などの説教にひかれた人々は彼を慕ってついて行くが、社会の不正についても糾弾するコンセリェイロに伸びる権力者や為政者達の弾圧の手は、共和制樹立後はますます激化。
 一方、投獄などの迫害にも屈せず伝道するコンセリェイロは、信者となった人々と共に、一八九三年にバイア州カヌードスの地に辿り着く。
 当時五〇〇程度の小屋が建つファゼンダ跡地のカヌードスは、カアチンガの中の石だらけの道を徒歩などで辿るのみの山に囲まれた天然要塞で、コンセリェイロを慕う信者は北東伯各地から押し寄せ、町は急成長。
 一八九七年には五二〇〇戸、三万人の集落に成長した小国家は、国の法律や納税義務も無視。近隣の農場からは貴重な労働力流出など、地域や国家も無視できない存在となっていった。(続く)

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