ニッケイ新聞 2009年8月22日付け
アマゾンで豊饒なのは生態系だけではない。過酷な大自然を縦糸に、極彩色の絵巻のような逸話の数々が横糸として織り込まれ、とても豊かな移民史の大河を形成している。並みいる欧米系植民地がアマゾンの厳しい自然に手を焼き撤退していく中、マラリアなどの病害に耐えて日本移民が根付いてきた八十年の歴史は、一朝一夕には語れない。錚々たる大物政治家が関わる中、アマゾン移住は進められてきた。計りきれないほどの血と汗と涙を苗床に、今では森林農業という世界から注目される新しい〃文化〃も芽吹いている。だが、そこに至る道程は楽なものではなかった。ベレン、サンタイザベル、グアマ、トメアスーなどの東部アマゾンを取材し、そんな移民史の一部を掘り起こした。(深沢正雪記者)
雨上がりの移住地で車窓を開けると、エアコンの吹き出し口から出る冷気がまっ白い煙になった。
車が故障して煙を吹いたのかと驚いたが、同乗した同地文協理事の佐々木ゼッツリオさん(45、二世)は、こともなげに「水蒸気ですよ。湿気が高いから冷気に当たって白くなるんです」というのに驚かされた。
取材に赴いた五月下旬、まるで雲の上の誰かが決めたかのように毎日正午過ぎ、にわか雨にみまわれた。本来なら雨期は終わっているはずの時期だが、今年は天候が不順だ。
州都ベレンから南に陸路で二百二十キロ、かつて船で一晩かかったトメアスーも、今では車で四時間余り。
湿度が九〇%以上という土地は地球上でも数少ない。以前、ブラジリアでは「湿度三〇%以下になると健康に良くないので学校が閉鎖になる」という話を聞いた。あそこは砂漠だが、ここはその対極にある。
地球の反対側からきた移民はそこに住み、農民として自然と密接に関わって生きている。熱帯特有の自然環境を理解することは、同地開拓の特殊性を知るためには必須だ。専門知識のある駐在員からすると、この地域はこう見える。
一九六三年、第二トメアスーに高砂アマゾン香料研究所が設立され、そこで八年間、胡椒油抽出事業の立ち上げなどのために駐在していた村井重夫さんは、同社の『ブラジル事業25年史』(八八年)の中で、次のように観察する。
「林立する巨木を見ると、どんな植物でも育ちそうに見えるが、一度伐採すると様相は一変し、強烈な日光に曝(さら)されて、地面は異常に熱せられ、裸足であるけば火傷をしそうになるほどで、地下二十センチに敷設した水道管からは、水が湯となって流れ出す。こんな酷暑が時には四カ月も続くこともあり、作物にとっては最悪の条件となる」(十六頁)
いったん開拓した土地はすぐに表土を失い、「土壌は膨軟性を失って、鍬も用をなさぬほど固くなり、作物の育ちも悪くなる」(同)と厳しい環境条件を分析している。
同研究所の初代所長、山下武夫さんも「乾季の日中気温は四十五度ぐらいになりますので、熱病で頭がぼぉっとするような状態が午後になると感じられます。(中略)夜も三十度の熱帯夜の連続です。早朝でも二十二度以下にはなりません。川水および井戸水もすべて年中二十六度でしたから、化学工場の冷却水としては困りました」(同十二頁)と記す。
たとえ日本で農業経験がある人でも、そのような環境下で開拓することは、まったく異なる困難があることが、今では十分に分かる。
でも、日本が開国してわずか六十年余り、一九二九年(昭和四年)の日本人に、海外経験のあるものなど無いに等しい状況だった。第一回移民が入植した時、どれだけアマゾンの特殊性を事前に理解していただろう。
ただ自らの命を賭けて挑戦し、貴重な犠牲をはらって、壮大なアマゾン絵巻に日本人の貢献を織り込んでいったのだった。(つづく)
写真=ベレン、トメアスーなどを中心にした東部アマゾン地域の地図