2009年8月22日付け
経済危機の中、ブラジルを含め世界中の人々が動揺している。感じていない人もいるだろうが、海外で働く我々の同胞もまた、その波に苦しんできた。日本へのデカセギ労働者に関しても、何の準備もできないまま、思いがけない帰国現象が起こった。
日本で産まれた子、幼い頃に日本へ連れてこられた子供がいる家族の場合、さらに状況は悪い。ポ語を話せない、「他文化」に向き合う恐怖を抱いているといった共通点がみられる。全く、なんという運命のいたずらだろうか。
親たちは貯蓄のため、子供たちを公立学校に就学させたがる。経済危機といった予期しない現象が彼らを襲い、不安定な状況に追い込まれ、子供を私立学校に通わせるようなリスクは犯せないという雰囲気がさらに広がった。
こうした中、ブラジルでは帰国子弟を公立学校に就学させる流れが一斉に起き、サンパウロ州教育局(SEESP)は、先手を打って心理教育学による補助を提供するプロジェクトを開始した。
そのプロジェクト「デカセギ子弟のサンパウロ州の公立校への復帰」は、日本人移民百周年記念で高まりをみせていたちょうど二〇〇八年六月に始まった。
日野寛幸氏によって発案され、〇七年から〇八年にかけて実施された日本文化教育プログラム「VIVA JAPAO」も、移民百周年の盛り上がりの中で成功を収めた。プロジェクト「デカセギ子弟のサンパウロ州の公立校への復帰」は文化教育連帯学会(ISEC)の協力を受け、二〇一二年まで続けられる。
現在、サンパウロ州内だけでも八百人以上の生徒が同プロジェクトに登録されている。公立・私立学校の生徒総数を念頭に入れ、実際どれだけ多くのプロジェクトを必要とする子供たちがいるのか想像してみてほしい。同局は、すでにその問題の解決に取組んでいる。
私自身、私の著書「日本へ向かった夢(デカセギの夢)―Sonhos Que De Ca Segui」の第二刷発行を持って、それを後押ししたい。第一刷の発行は、十二年前に行われている。以前から検討してはいたが、良く知られていない本を発行するのは困難を極め、出版の機会を見計らっていた。
だが今、その子供たちがポ語の習得や適応(再適応)に伴う困難に直面し、家族との緊密な支え合いを必要とする状況を目の当たりにし、彼ら自身の実話を扱っているこの本は読まれるに値するように思えた。
じっくり読んでもらえれば、自然と自己の統合や言語の習得に役立つ何かが見つけられるかもしれない。それが私の意図するところだ。
この本は、移住現象の初期の頃における架空の家族の物語を綴っている。しかし、それは単なる想像上の作り話ではない。そこには、三百人以上のデカセギらによる証言を基に、深い真実が織り交ぜられている。
一体どんな理由で良い家庭で育った人間が人生の名誉を得ようと故郷の国を離れたのか、派遣業者に頼って渡航し、日本という新地で純粋な日本人との不和や、はたまた同郷のブラジル人との不和を体験しなければならなかったのか、そして貯蓄に奔走しなければならなかったのかに言及した。
物語の中で、ブラジル人の親友となる日本人も登場させた。その日本人の興味から、いつしか二人の会話はブラジルへの日本人移民の話に発展する。その内容は、現在ブラジルへ帰国する子供たちにも当てはめられるため興味深いはずだ。ブラジルに「残された」ブラジル人子弟側の真実や本音を扱い、家族の別離が両親の意に反して起こったことを理解する一助にしてもらいたい。
本の序文で吉岡黎明ISEC会長も述べるように、この作品が恵まれており日本へデカセギに行く必要などなかった人たちの心をも揺り動かすことを願っている。そうして、そういったデカセギたちのやむをえない状況にも理解を示していただきたい。
佐野シルビオ(さの・シルビオ)
元建築家、作家、ジョルナル・ダス・ナッソンイスの風刺漫画家。日系の新聞などにも風刺画や記事、クロニカを提供する。日本へは4度の渡航経験を持つ。三重県県費留学生、名古屋大学で修士号取得。その後、家族と共にデカセギで静岡県浜松市へ。二〇〇七年から〇八年「日本バンザイプログラム」に参加。現在は、サンパウロ州教育局のプロジェクト「デカセギ子弟のサンパウロ州の公立校への復帰」を指揮。