ニッケイ新聞 2009年8月25日付け
一九二九年九月二十二日午前八時半、第一回移民の四十二家族百八十九人がアカラ植民地(現在のトメアスー移住地)の波止場に到着し、前人未踏の原始林に開拓の一斧を振り下ろした。
沢田哲さん(さとし、90、熊本県)は、「本当は第一回移民で来るはずが、トラホームで引っかかって神戸の移民斡旋所の六カ月ほどお世話になってね、第二回でやってきました」と晴れ晴れとした表情を浮かべ、七十九年前を昨日のことのように語る。
昨年五月、愛妻を失って以来一人暮らしをしていたトメアスーから、子供の住むベレンに出てきている。
沢田さん家族は二九年十二月にマニラ丸で神戸を出航し、第一回移民に遅れること五カ月、翌三〇年二月に到着した。父弥太郎、母とね一家七人と共に渡伯した時は、すでに十歳、弟の脩(ふかし)さんはまだ七歳だ。
哲さんは「生まれたとこは貧乏村でね。あのころはブラジルよりひどかった」と遠くを見つめる表情をした。郷土の村のこともはっきりと脳裏に刻まれている。
トメアスーでは最初から二百五十メートル幅で奥行き一キロの土地、二十五町歩が決まっていた。「日本じゃ一反歩(約三十一メートル四方)もなかった。これにほれこんだんですよ」と笑う。
移住事業を推進していた南米拓殖株式会社(以下、南拓と略)の福原八郎社長が二八年十月に自ら先発隊として乗り込み、受入れ準備を進めていた。
だから沢田さんが到着した時、家はすでに建っており、二町五反は伐採してあり、四軒に一つ井戸も掘ってあった。
しかし、次第に問題点が明らかになってくる。
沢田さんは「食べ物がないんだものね。アカラ野菜組合(一九三一年)ができるまでは何もなかった。マモンの漬け物をよく食べた。あの根っこは大根みたいな味がする。サツマイモの茎はあんまり食べるとアクで歯がまっ黒になる」と感慨深げに思い出す。
最初は南拓の指導で主作物たるカカオを植え、米をまいた。ベレンから購入された白米を会社直営の販売店で俵九十ミル払って食べつつ、収穫した翌年の籾は俵七ミルという安値だったのだ。
「あまりの値段の相違にぼう然となり、もろくも希望の夢の城郭は崩れはじめた」と『トメアスー産業組合三十年史』(一九六一年、七十頁)にはある。
そして、沢田さんは「成功しないうちにみんなマラリアでね…」と遠くを見る。寒気と熱がひどく、四十二度を超える熱が出た。「キニーネが効くんだけどね、肝臓がやられるんだ。丸薬で苦いのなんのって」。
一九三三~三四年、三七年が一番ひどく、マラリアが黒水病(致死型マラリア)に悪化して亡くなるケースが目立ったという。
「三十四~五歳の隣の奥さんが黒水病で亡くなられましたね。赤子が残るわけですよね。うちの母親は、その代わりに一晩中オンブしてね。悲惨なモンでしたよね、今思えば」
でも、けっして他人事ではなかった。三七年は沢田家にとっても最悪の年だった。「うちの母も黒水病になって五月九日に、オヤジは十月二十七日に亡くなった。オヤジはまだ四十七歳だったんですよ…。毎月何人もですからね」。
相次いで両親を亡くした時、沢田さんはまだ十八歳だった。「兄貴も二十三歳。兄弟妹と子供たちだけで頑張って協力し合って農場をやった。今思えば、私らも良く生き残ったものだと思う。周りもみんな一歳から二十代、三十代でどんどん亡くなっていくんだからね。だからほとんどが退耕した」。
トメアスー入植にさかのぼること十四年、サンパウロ州移民史にも平野植民地というマラリアの悲劇に襲われた入植地があった。だが、その教訓はアマゾンで活かされなかった。(続く、深沢正雪記者)
写真=第2回移民の沢田哲(さとし)さん