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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《3》=苦難続きで78%退耕=極限まで体力消耗し罹患

ニッケイ新聞 2009年8月26日付け

 移民は生まれた環境に近い場所を選んで定住する傾向がある。沖縄系なら海に近いジュキア線、ドイツ系なら南部三州に集住した。祖国での経験が活かせることを本能的に察知しているのだろう。
 だが時に冒険もする。まったく違う環境、例えばアマゾンに挑戦したりする。しかし、人は往々にして持って生まれた習慣を、どこへ行っても守ろうとする。それが美徳であり正しいことだと頑なに信じ、苦しくてもいつか報われると考え、どんな苦労も堪え忍ぶ。
 あまりに環境が異なる時に、習慣が邪魔をすることもある。
 「ここの農業労働者は、汗をかかないように、ゆっくり動くんですよ。日本人には、それがさぼっているように見えるが、実はアマゾンで生きる知恵なんですね」。アマゾニア日伯援護協会の事務局長、太田勲さん(58、新潟県出身)は、そう分析する。
 アマゾンで最も暑いのが七~八月の夏だ。日中なら日陰でも三十度以上になるのは珍しくない。だから最も暑い十二時から午後二時は家に帰って寝る習慣が生まれた。「いったんこれに慣れると、昼寝しないと身体が動かない」と笑う。
 「昔の日本人は炎天下でも八時間、一生懸命働こうとした。ろくな食べ物はない、体力は持たないで、病気にかかりやすかった。だから日本からきて三カ月もすると元々の体力を使い果たし、身体が元気なら発病しないような病気が出る」。
 マラリア、黒水病、黄熱病、デング熱などアマゾンに風土病は事欠かない。これらの病は太古の昔から風土と共にある、いわば自然の一部だ。
 原始林のどまんなかにある移住地では、風土と共存していくように知恵を絞るしかない。
 栄養をとり、体力を温存する――そんな人間としての基本的なことが、開拓初期には難しい。とにかく一日でも早く経済的に自立できるようになろうと、日本人としての勤勉さを発揮して、一生懸命に働くしかなかった。
 八十年前、温帯の日本から来たものには、赤道直下の熱帯の過酷さがどれほどのものか、分かるはずもなかった。
   ☆   ☆
 日本移民はトメアスーに第二回、第三回と次々に入植した。
 「入植者は後を絶たなかったが、経済的苦境と風土病などの猛襲で全入植者はおののき、営利事業として出発した会社側と裸一貫で渡伯し、原始林を伐り開く入植者との意見の食い違いで、特に第四回入植者達は『永住の地にあらず』と激昂して全員退耕という痛恨時もあった」(『同七〇年史』二十八頁)。
 当然のことながら、痛い目にあったのは日本移民だけではなかった。
 「オーレン植民地のポルトガル移民、モンテ・アレグレ植民地のスペイン移民、サンタレン植民地のアメリカ移民、ギアナ植民地のイギリス移民とオランダ移民など先進国民の移住地建設、アマゾン河流域の植民地事業が全部失敗の歴史で綴られている時、未経験者の集まりである日本人ばかり、早々に成功するはずがなかった」(同)
 このようにアマゾン入植はある意味、「文明」対「自然」という人類の挑戦としての側面を秘めている。従来の手法で立ち向かってダメなら、痛手を負わないうちに欧米諸国の移民のように早々に退散、移転するのがスマートなやり方だった。
 でも、鎖国を終えたばかりの日本人には、世界情勢のいろはも分からず、移住慣れした発想は思いもよらなかった。
 ただひたすら耐えた。
 移住開始四年目の三三年十二月、マラリア罹患者は住民二千四十三人に対し、延べ三千六十五人を数えた。なぜ住民の人数より罹患者が多いのか。それは一人が年に何回も罹っていたからだ。
 退耕者家族数を見ると、大変な現実が反映されている。四二年までに入植した総数三百五十二家族(二千百四人)に対し、実に七八%にあたる二百七十六家族(千六百三人)が退耕した。
 この数字を戦争に例えれば、軍隊なら兵力が半減した時点で「全滅」と表現されるから、七八%が退耕という数字は、さしずめ「玉砕」に近い。
 つまり、みながそれだけろくなものも食べられない中、極限まで体力を消耗するほど働き、成功を信じて踏ん張ったのだ。(続く、深沢正雪記者)

写真=第1回移民をトメアスー波止場桟橋で迎える人々(『トメアスー開拓25周年記念写真帳』8頁)