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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《7》=ベレンに野菜〃革命〃を=禍福は糾える縄の如し

ニッケイ新聞 2009年9月2日付け

 死屍累々にすら見えた植民地の一角に、とんでもない甘美な実をつける新しい芽が吹いていた。
 一九三三年、南拓の臼井牧之助が渡伯途上、シンガポール港で南洋種の胡椒苗二十本を購入してトメアスーに持参した。これが南拓の直営農事試験場に移植され、うち二本だけが発芽した。
 三五年に南拓が会社整理断交を決断し、試験場の閉鎖を決めたとき、農場雇員の尾花福太郎氏から苗三十本を加藤友治、斉藤圓治の二人が譲り受けたことが幸いした。
 もし、そのままほうっておいたら植民地繁栄の夢は、胡椒の木と共に枯死するだけであった。
 衰微する南拓と反比例するように、三一年に入植者の自主的な発意で結成された「アカラ野菜組合」は三五年には産組と名称変更するほど発展、ベレン市場に野菜の一大革命を起こしていた。
 これはベレン市民の食生活を変えるという大変な挑戦だった。
 「野菜栽培は北伯において不可能だといったジンクスさえあった時代である。ごく上流の南伯またはヨーロッパ、北米の空気をすったことのある人のみが南伯から取り寄せて食卓にのせていた程度であった。一般の人々は見たこともなければ、従って食べたことも無論なし、料理の仕方も知らないから、これらの人々に野菜の味をまず覚えさせ、毎日少しずつでも食卓にのせる習慣をつけることは、肉の代わりに魚を食べさせるということよりはるかに困難な仕事であった」(『同産業組合三十年史』二頁)
 ベレン販売係の村上達之助氏はじめ、入植者は生きていくための死にものぐるいの奮闘を続けた。「徐々にベレン市民の食生活にも浸透していき、それにつれて売り上げも日をおって増加の線をたどった。当時の野菜組合の努力した結果が、ベレンを生活文化の遅れている北伯の都市にして異常なまでに蔬菜類の消費の高い都市にさせた」(同三頁)
  ☆   ☆
 禍福は糾(あざな)える縄の如し――。暗黒の時代が再びやってきた。
 最初のそれは南拓会社整理という身内の事情から派生したが、今度は祖国の戦争に地球の反対側で巻き込まれた。
 苦労の末、ようやく順調にのびるようになった野菜の出荷をあざ笑うかのように、四一年暮れの真珠湾攻撃に続き、翌年一月にはブラジル政府が対日国交断絶を宣言した。
 「各植民地、ベレン市、マナウス市在留邦人は全員家宅捜索を受けた。日本文字の書類、ラジオなどはすべて没収され、日本語会話の禁止、三人以上の集会禁止、違反者は容赦なく投獄された」(三十五頁)という厳しいものだった。
 沢田さんは時のトメアスーの様子を「警察で悪いのがおってな。当時の指導者が軒並み捕まった」と振り返る。日系人にとっちめられた経験のあるブラジル人が警察官となり、いわれのない咎をかけられていたという。
 とどめは、四二年八月にベレン沖でドイツ潜水艦Uボートによりブラジル籍商船が沈没させられ、乗組員乗客合わせて二百七十人が死亡するという事件だった。これをきっかけに一気に枢軸国移民への迫害が激化した。
 「ベレン在住枢軸国人家屋がブラジル人暴徒によって襲撃放火される事件が多発、特に日本人に被害が甚大であった」(同)。サンパウロ州以上にひどい状態に陥った。
 沢田さんは「四二年八月二日頃、ベレンで日系人の家が焼き討ちされた。五~六日頃にはトメアスーに日系人が百人以上強制収容され、パリンチンスなどからも連れてこられた」と振り返る。
 トメアスーは州の管理下に移され、州営植民地となった。同時に、南拓の現地法人コンパニア・ニッポニカやアカラ産業組合の経営も州政府の管轄下に移された。
 「植民者一同は一致団結、忍従と沈黙のままにイバラの道を歩んだのである。一般には当時のことを『捕虜時代』ともいっている」(『七十年史』三十六頁)。
 「捕虜時代」という時代区分は、むろん全伯でここだけ。北米の日系人強制収容に似た特殊事態であり、アマゾン入植八十周年だけでなく、移民百周年においても貴重な歴史といえる。(続く、深沢正雪記者)

写真=野菜が並ぶ現在のトメアスー市場