ニッケイ新聞 2009年9月15日付け
「いわゆる黒ダイヤですよ」。第二回移民、トメアスーの沢田哲さんは、ひと言で当時の雰囲気をそう言い表す。イバラの道も、移民自身の血のにじむ努力によって報われる運命にあった。
四七年十二月のトメアスー産業組合の総会では、それまで「雑収入」項目にあった胡椒が、米、野菜に次ぐ第三位に急浮上し、さらに翌年の総会では米を抜き、ついに一位に躍り出た(『トメアスー七十年史』三十七頁)。これを受け、植民地では全員が胡椒主作に切り換えた。
『アマゾン六十年史』に寄せた押切正三さんの「胡椒の黄金時代」という一文は、当時の雰囲気をよく伝えている。
戦後のトメアスー移住は一九五三年八月、二十九家族百八十一人が「あめりか丸」で入植した事に始まる。押切さんが移住した五五年当時、故郷の山形県花沢市は「田畑の動力は牛や馬、外出は自転車」というのが常識という時代だった。
ところが、「日本からみれば地球の果てのように感じたトメアスー村では、日本人の各家庭がトラックやトラクターを所有しており、乗用車は一台か家族の多いところでは二台を持ち、自家発電装置を備え、冷蔵庫はガスか石油であったが、どの家庭にも一台か二台あり、十六ミリ映写機を所有し、腕時計はローレックスの金時計をはめ、まさにカネが唸っている黄金郷であった」と回想する。
「一トンの胡椒でトラックが約二台近く買えたことになる。いま考えてみれば、まさに無茶苦茶の時代であった」と書く。
〃緑の地獄〃と呼ばれていた大樹海の真っ只中に、忽然と〃黄金郷〃が現れたわけだ。
ピメンタ御殿が続々と建ち、フランス瓦など凝った材料をベレンから運び、楽団を呼んで盛大に落成式をした人もいた。角田修司さんは「あまりに儲かるんで、お金を置いておくところがなくて困るような状態。胡椒を出荷した麻袋にそのままお金を入れて、家の中に放ってあった時代です」と解説する。
その名残りで「御殿を作るのに日本から大工を移民として呼んだ。手伝って建て方を憶えたブラジル人が、今でも墨壺を使ってます」という。
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『アマゾン入門』(山根一眞、文春文庫、一九八七年)には第一回移民の大沼春雄さん(当時71歳、山形県花沢市)の逸話が紹介されている。
「五四年だけでもトメアスーの産業組合員が手にした金は一億ドル以上(当時)で、その華々しい景気は、同年、母国日本に錦を飾った大沼夫妻の豪遊にすべてが集約されている」(四十五頁)
夫婦でプロペラ機にのり日本へ。大沼さんの「鞄の中には八百五十万円の札束が入っていた。同郷出身者八十人から預かってきた金である。故郷へ帰ってこの金を配達しなければならない。(中略)公務員の初任給が一万五千円と少しの時代だから、五百七十人分の給料を運んだ計算になる」(同『入門』四十七頁)。
故郷に到着し、友人の兄を訪ねると稲刈りの最中だった。大沼さんをみて押し売りと勘違いしたらしく、「一時間も口をきいてくれず、仕事の手を休めな」かった。
「あんたの弟から金を預かってきたが」と呼びかけたが、「そんなもん、生きているか死んでかもわからん」とつれない返事が返ってくるのみ。
そこで大沼さんは一計を案じた。「ポンと千円札百五十枚、十五万円の札束を出し、『受け取りにハンコをくれ』とぶっきら棒にいったが、相手はびっくりし、うろたえて囲炉裏に湿った松をくべすぎ、煙で涙をポロポロ流す」(同)。
苦労を重ねて生き残った第一回アマゾン移民が夢にまで見た帰郷――。それを錦で飾った時の気持ちは、どんなものであったか。(続く、深沢正雪記者)
写真=胡椒全盛期のピメンタ畑(沢田毅さんの畑『トメアスー開拓25周年記念写真帳』より)