ニッケイ新聞 2009年9月16日付け
「いく度のムダンサと共に重ねくるいびつとなるも鍋は光れる」(武井貢)。藤田朝日子さんは十三日に行われた第六十一回全伯短歌大会(椰子樹、ニッケイ新聞共催)の批評で、「引越しのたびに新規巻きなおしとなる移民の人生を鍋に重ね、『いびつになっても鍋は光っている』との作者の決心を詠み込んでいる。純然たる移民短歌であり、スルメのように味わい深い句」と絶賛した▼類型句との批評も聞くがやはり好きな一句だ。鍋という日常の料理道具が〃類型〃になるほど、移民の人生を表現しやすい素材であること自体が興味深い▼「ブラジルに旅立つわれを見送りし父母の旅立ちわれ見送れず」(新井均)も想いはとても深いが、敢えて繰り返しを使って印象を強めたとするか、「ただの繰り返し」と解釈するかで評価が変わってくるようだから難しい▼「夢いだき移住せし者みな逝きてわれ一人老いて墓守をする」(鳥越歌子)も個人的に好きな作品だ。「なつかしき方言まじえ弟の話す言葉が亡父に似て来し」(酒井文子)や「子のシャツやズボンを縫いしこのミシン今日は別れのほこりを拭う」(小濃芳子)も印象深い。特に後者に対し、小野寺郁子さんが「半身のようであったミシンを、子の成長と共に手放そうとしている心情」と解説しているのを聞き、さらに味わい深い感じを受けた▼「移民とう気負いし心も今は失せ転ばぬようにと坂を下りぬ」(上妻泰子)を読み、若かりし日々はさぞや奮闘したのだろうと感じさせる▼最後に、自戒を込めて「カタカナ語増えゆく日語の新聞を読みつつ英語の辞書を引きおり」(綱島クララ)。 (深)