ニッケイ新聞 2009年9月17日付け
アマゾン入植三十周年は胡椒景気の真っ直中であり、それにふさわしく盛大に祝われた。日本の代議士たちも戦後、東京にアマゾン会を発足させ、上塚司が会長になって懸命に移住地を応援し、盛り上げた。
五九年十一月、千葉三郎代議士を団長とする慶祝使節団が来伯して行われた開拓三十周年記念祭では、祭典準備委員会により壮大な計画が発表された。トメアスー中心街から州道を南へ二十五キロいった地点に、第二移住地を建設する計画だ。
「その規模と構想から見てもアマゾン地域では戦後最大のものであり、戦前のアマゾニア産業、南米拓殖の二大植民地に匹敵するものであった」(『トメアスー七十年史』四十一頁)という希有なものだった。
そこには根本的な必要性があった。「社会的、教育的、生産的にもあるいは娯楽面、衛生面など、あらゆる面で村として、町として機能性のある社会を築くためには、最小限一千家族が必要であり、その要求を満たすべく第二植民地を建設して人口の増加を図らなければならないと考えるにいたった」(同)
これを実現するため、農耕に適した水利の便の良いまとまった土地を十八人の名義で一括獲得しようと、州政府と交渉にあたったのが、組合渉外理事の沢田哲さんだ。
「苦労は筆舌につくせぬものがあり、一年間にわたり連日のように折衝が続いた」(同四十三頁)。そして、六〇年十一月十五日の三十一周年式典当日、ネイ・ブラジル初代郡長から、三万六百町分の地券証書が渡されるという劇的な情景が繰り広げられた。六年間に一千家族を導入するという壮大な計画だ。
第二トメアスーの測量など調査・営農計画にあたったのは、当時、移住振興株式会社(ジャミック)職員だった山中正二さん(71、岩手県)だ。東京農大で千葉三郎学長の薫陶を受け、六〇年に東山農場研修生の二回生として来伯し、一年半の研修後、ジャミックに就職して第二トメアスーに赴任した。
現在、ベレン市内で花卉・園芸、造園業のさきがけとして活躍し、〇七年には山本喜誉司賞も受賞した山中さんの事務所には、千葉さんの写真がまるでご真影のように掲げられている。八二年にジャミックが解散したのに伴って退社し、現在の山中商事を起こした。
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第二トメアスー開拓当時、幅十キロ、奥行き二十八キロの原始林の測量は大変な仕事だった。
正確な測量をするために、測量線にあった大木は全て伐採除去した。「航空写真測量をやらしてくれ」と主張したが、移住者の土地代に反映するからダメだと断られた。倒すのに一週間もかかるような大木、樹高が七十メートルにもなるものがあった。
「十二人編成で森に測量に入ったら、一カ月出てこない。何が一番怖いと言って、動物じゃない。銃を持った密猟者ですよ。私も二十二口径ウインチェスターを二丁持って歩いていました」と振り返る。
入植したのは、六三年の日本からの第一陣六家族三十人をはじめとし、八二年までに六十五家族二百五十人、単独二十人を数えるにとどまった。
入植者は山焼きの問題で二派に分かれ、血まみれの大喧嘩となり、その紛争状態は約一カ月も続いたという。山中さんは「この時は、事業所用備品の三十八口径のビストルを腰に下げて、警官を同行させ、弱冠二十五歳の私が仲裁にいったこともあった」と述懐した。
法人としては、ピメンタ油の抽出事業の高砂香料工業(現・中西農場)、セキレイ農牧商工も設立され、アマゾニア熱帯農業総合試験場(現・東部アマゾン農林研究センター=CPATU)も設立された。
団体の入植としては、進駐軍の混血児を受け入れた神奈川県大船市のエリザベスサンダースホームが実習農場を建設して実際に八人が入り、日伯の歴史を交差させるドラマの舞台になった。(続く、深沢正雪記者)
写真=山中正二さん