ニッケイ新聞 2009年9月23日付け
戦後最大の第2トメアスー移住地構想に続き、さらに1973年、第3トメアスー移住地計画までが起案され、郡庁と組合、文協の3者による準備委員会発足し、76年に造成を開始した。
76年8月の州議会では、日伯議連会長の千葉三郎氏の功績をたたえてウビン地区の1万ヘクタールを千葉三郎植民地と命名した。一見、躍進著しい印象も受けるが、心配事も潜行していた。
人間万事塞翁が馬――というが70年代前半のトメアスーは、その真っ只中だったかもしれない。最盛期には450家族が暮らすまでになっていたが、60年代中頃からピメンタに胴枯病と根腐病が発生するようになっていたのだ。
何人もの日本の専門家が研究したが根本的な対策は難しく、結局は病原菌から逃れて遠方へと転耕する事が一番と判断が下されることが多かった。そのため、移住地を離れて、どんどん無病害地区に移転が進んだ。
当時、組合理事だった坂口陞(のぼる)さんは『在外日本人』(柳原和子、講談社、98年)の中で、1969年に畑の中の5本ほどの葉が黒く変色したと思ったら、翌年には3千本の胡椒に広がり、5、6月の2カ月でまっ黒になったという体験を述べている。
「原因はフザリュームという病原菌だったんですが、それを増やしたのは人間の考え方の間違いだった」(901頁)とし、「もともと胡椒は日陰に育つ作物です。自然形態では、他の木に寄生して育っていく。それを日本人の農民は謹厳実直、まじめだから、日の当たるところに植えて太陽光をあて、働け働け、という考え方で、促成で大量に生産できるようにした。もっと働いてもらいたいから、化学肥料もバカバカと食わした。だから耐性のない肥満児が育ってしまった。バタバタいくのは当たり前だったんです」(同)と分析している。
角田さんは「組合は戦後、60年代まで胡椒一筋で新作物に関する知識はゼロに等しかった」という。「今残っているのは貧乏しながらでもここで何とかしなければと踏ん張ってきた人たち」。
第2移住地もピメンタを主力作物に、64年2月末で8万4千本を植付けた。ピメンタの値段もよく移住地のすべり出しは好調であった。73年には植付総本数は36万本、同年の収穫量が1500トンを記録しているが、翌74年の異常降雨でピメンタに根腐れ病が蔓延し、収穫量は減産を続ける。移住地の経済的打撃には計り知れないものがあった。
このショックから立ち直るために、スペインメロンや蔬菜、マラクジャー、カカオ等を植付け、営農の複合化を図った。胡椒の病害から逃れて、第3トメアスー移住地に新たな胡椒園開設も画策した。
深刻な病害を心配した千葉三郎衆議は、マンジョッカによるアルコール生産をテコにトメアスーの再生を思いつき、すぐさま実行に移した。
78年に視察団、アマゾン移住50周年には個人的な資金を投入して工場まで建設した。ここで生産したアルコールを、石油ショックで揺れる日本に輸入し、トメアスー移住地を支えると共に、日本経済に安定をもたらすという壮大な構想だ。
山中正二さんが直接、千葉本人から聞いた話では「植木茂彬鉱山動力大臣に作物から燃料を作るアイデアを提案した」という。結果的にサトウキビでそのアイデアが結実し、現在の世界的にブラジルが注目されるキッカケとなったといえるようだ。
山中さんは「天下国家を論じる人。自分の評価より、世界的な視野を持った政治家だった」と同議員を惜しむ。
30年前、アマゾン入植50周年の慶祝団長として来伯途上、79年にメキシコで客死した千葉議員の後を継いだのは岸信介元首相で、6月27日付け『移民の日』特集号で詳報したように、アルコール計画実現のためにお忍びでトメアスー訪問までした。
このように当時、日本を代表する政治家が北伯に命運を賭けていた。(続く、深沢正雪記者)
写真=80年代に来伯した時の岸元首相(左から2人目)と懇談する、コチア産組中央会の井上ゼルバジオ理事等(右から3人目)ら