ニッケイ新聞 2009年10月6日付け
一世の多くは農業に従事したが、二世以降の世代は弁護士、医師などの自由業、建築業、印刷業、農産加工業など多様な分野に進出した。その象徴が山田商会だ。北伯地方で「Y・YAMADA」を知らない人はいないといっていい。
小さな農機具商から始まり、自動車販売、レストラン経営、旅行業などの多彩なグループを擁する総合小売業に育った。
創業者は、1931年に静岡県沼津市から移住した故山田義雄さんと息子の純一郎社長(83)。現在経営の主軸を担う、純一郎さんの長男フェルナンド副社長(二世、54歳)は「日本人で最初に本格的に商業へ進出したのが山田商会です」と胸を張る。
店舗数はパラー州に30店、アマパー州に2店の計32店にもなる。山田商会の総売上げは約586億円で、小売業としては全伯でも13位、7300人を直接雇用しており、間接雇用を入ればなんと2万人以上だ。
義雄さんは沼津で八百屋を営んでいたが、妻と長男の純一郎さんを連れて移住。その頃から講道館柔道を習い、渡伯後もアマゾン開拓に生涯を捧げたコンデ・コマ(前田光世=ブラジリアン柔術の祖)の弟子だった。
義雄さんは戦時中、ベレンのサンジョゼ刑務所に拘留されていた。同商会の創立45周年を記念して出版された『Y.Yamada:uma hitoria de trabalho e sucesso』(00年) によれば、そこで絵を描き始めた。画材がなくて炭を鉛筆代わりに使って、1年) 監獄の壁に中の様子を描いたという。
後にトメアスーに連れて行かれ、そこで強制労働に従事した。義雄さんは「毎日同じことの連続。昼食に遮られる以外は、朝から晩まで道路工事にかり出されるか、製材所を手伝わされた」(同)と述懐している。
その傍ら、「たくさんのインディオと知り合いになり、彼らの生き様に感嘆を憶えた」と記す。その感動をして義雄さんが戦後、アマゾンの大自然に生きる彼らを絵に描くことに没頭するようになった。トメアスーで息子も2人生まれた。
50年にベレン市内のホテルの一室(200平米)でコンロ、農業機械などを販売することから始まった。97年には、ピストルの回収キャンペーンも行った。「我々は武器も売っていたが平和の重要性を見直し、率先して回収してみせることで社会に一つの模範を示したかった」と回想する。集まった120丁余りは陸軍に寄付された。
毎年12月、クリスマスの時期に静岡県人とその子孫が、父の家に集まって懇親会をしている。「もう10年以上になり、150人も集まって賑やかですよ」とフェルナンドさん。
同商会は北伯最大のスーパーマーケット網に成長し、来年8月には創立60周年を迎える。
成長の秘訣は、それまで誰も顧客対象にしてこなかった、銀行に口座すらもっていない庶民を信用してクレジットカードを発行したことだ。普通は富裕層や中産階級などの社会の上層を相手にした商売をまず考える。だが、山田商会は圧倒的多数の庶民を信用することで、絶大な愛顧を勝ち取った。現在150万枚ものカードを発行し、うち9割が庶民層だ。
戦争中の体験から義雄さんが覚えた絵が、山田カードのデザインとして使われ、愛されている。
庶民に特化したきめの細かいサービスが特徴だ。例えばカード顧客が誕生日に来店すると、レジで店員みんなから「パラベインス!」を歌われ、ボーロが振る舞われプレゼントが渡される。
「今年中にさらに1店開店し、300人を雇用する予定だ。来年も1~2店。もっと地方へ力を入れる」。モットーは日本文化の特質である勤勉さ、誠実さだ。「従業員教育に厳しいことで有名。うちで働いたといえば再就職でも有利なくらいです」と笑う。
85年創立、42社の日系企業を束ねるパラー商工会議所の初代会頭が純一郎さんで、3月からフェルナンドさんに渡された。
「総領事館はもとより、ブラジルの商業関連の連合組織や州政府との関係を緊密にするつもりだ」との抱負を語り、表情を引き締めた。(続く、深沢正雪記者)
写真=パラー商工会議所の山田フェルナンド会頭