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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《30》=続く二世の社会進出=政治家や大学教授に

ニッケイ新聞 2009年10月8日付け

 パラー日系商工会議所の山田フェルナンド会頭は90年、同州初の日系高官として州商工鉱庁の長官に就任した。93年には日系初の州議としてナガノ・テオドロさんが繰り上げ当選するなど、二世や準二世世代の各界での躍進は著しい。
 パラー州に3人いる日系市長の一人、サンタイザベル市長のカルロス・マリオ・デ・プリット・カトウさん(44、二世、PMDB)は「日本移民のアマゾンへの最大の貢献は、もちろん農業への最新技術導入だ」という。他はサンタレン市、イガラペ・アスー市。現在、日系州議は一人もいない。
 「大ベレン都市圏に葉野菜を供給する緑地帯を形成し、州都のセアザの45%は日系人の生産した野菜だ。ブラジル人で野菜を生産している人たちも日本人から学んだ人が多い」。母は非日系。若いが終始にこやかな表情を浮かべ、落ち着いた雰囲気をかもしだす。
 08年10月9日に亡くなった父・加藤ミツヨシさん(静岡県出身)は54年に渡伯した。現在、家業では204ヘクタールにデンデ椰子を植えている。「統一地方選の開票の前日にUTIに入ったから、当選したのを知らずに亡くなった」とわずかに涙ぐむ。
 「昔はグアマからサントアントニオにいたる一帯は、みんな日本人の土地だった。そこで働いていた人たちが農業のやり方を学び、日本人がデカセギにいった後の土地を買って農地にしている。だから1、2ヘクタールの小農が多い」。
 5人の兄弟は全員、大学を卒業している。2人は医者、3人は歯医者になった。「父が残した教育には本当に感謝している。これこそ日系の特色だ。謙虚さ、実直さ、勤勉さを父から学んだ。それが政治家になった今活かされていると思う」。
 現在、連続2期目。「昨年の選挙で日系市長はみな再選された。これは日系としての責任ある行動が、市民から評価された証拠だと思う」。

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 一方、芸術界では50~60年代にブラジル抽象絵画界の旗手として知られたフラビオ・シロー(田中フラビオ駟郎)もいる。父・田中マサミさんは32年11月にりおでじゃねいろ丸で渡伯、トメアスーに入植した。
 学術界での日系進出は特にめざましい。パラー連邦大学で外国商取引を教える武藤令子教授(60、熊本県)は、80周年を記念して1月から日本移民や日系人の貢献や動態を調査している。パラー州内だけではなくアマパー州にも赴き、日系人100人に聞き取りをし、「移民の移動」を切り口に考えている。
 「サンパウロ州と違って、コロノではなく最初から地主として入ったなどの移住事情の違いを明確にさせたい」と意気込む。「アルブラスなどの日本企業誘致に日系人が果たした役割も大きい」と語る。
 93年、ロライマ州に新設された連邦農科大学の学長にシンポ・ムネヒロさんが就任したが、80周年の今年8月には、ベレンのアマゾニア連邦農牧大学(UFRA)の学長に沼沢末雄教授(二世)が就任した。34年8月にあふりか丸で渡伯した故沼沢谷蔵氏(山形出身)の三男だ。
 パラー州工業連盟(FIEPA)と東部アマゾニア農牧公社は日本移民百周年を記念して07年に『A Imigracao Japonesa na Amazonia(アマゾンにおける日本人移住)』(本間アルフレッド、農牧公社刊)を刊行した。
 同工業連盟のジョゼ・アゼベード・サントス会長は刊行を祝うあいさつ文の中で、同副会長の片岡・尾山ロベルトさんが、測量技師で自由渡航者として笠戸丸で渡り、第1回アマゾン移民の受け入れに尽力した片岡治義(はるよし、故人)さんの孫であることを「誇りに思う」と表明。
 その上で、「マラニョン州と同程度の面積しかない日本が戦後奇跡の復興をとげ、地球最大級の経済大国になったことは、常々役員間の議論の的であった。(中略)教育への投資などのあり方は移民を通してアマゾンに移植され、農業、労働の考え方、文化など多方面に影響を与えている」と工業界を代表して高く評価した。(続く、深沢正雪記者)

写真=加藤市長(上)/武藤教授