ニッケイ新聞 2009年10月14日付け
トメアスーのサントメ墓地には、移住地に支援を惜しまなかった千葉三郎日伯議連会長、南拓を主導した鐘紡の武藤山治社長、開拓最前線で悪戦苦闘した福原八郎南拓社長、胡椒をもたらした臼井牧之助氏、東京農大拓殖科の杉野忠夫初代科長の5人の墓がある。
〃第二の故郷〃トメアスーに自らの墓を建てようと発案したのは、千葉三郎氏だった。
「アマゾンと墓」という同氏の文書の中で、75年8月の除幕式の様子を「45年前、私共と渡伯して不幸に亡くなった方々への供養もでき一安心した。特に福原さんは、南拓社長としてベレンに駐在させられたが、調査不十分のそしりを受け、四面楚歌、失意の内にこの世を去ったのはお気の毒であった。今日はその恩義に報いたわけで感慨は私一人ではない」と記している。
鐘紡中興の祖とまでいわれた武藤山治は、1930年に社長を辞し、32年に政界(衆議)も引退。その後、師と仰ぐ福沢諭吉が創立した時事新報社長となり帝人事件を通して政財界の腐敗を糾弾している最中、34年に鎌倉の別邸を出たところで狙撃され死去した。
翌35年に南拓本社は植民事業を断念し、福原八郎社長が万感の涙を飲んで引責辞任した経緯は6節に詳述した通り。
武藤山治の墓には次女が大切に保存していた「血に染まった鎌倉の砂」を、福原八郎の墓には老眼鏡と万年筆を遺品として納めた。
臼井牧之助さんの実娘は女優の小山明子で、夫は映画監督の大島渚だ。84年9月15日にベレン総領事館の招待で夫婦は移民55周年を祝うために来伯し、高齢の父の代わりにグラン・クルス章を受け取った。
千葉、臼井、杉野3氏は死後、実際に分骨し、納骨法要が行われた。
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70周年事業として97年に文協敷地内に「初期移民の家」が完成した。88平米の木造住宅で、先駆者の苦労を忘れまいとする試みだ。同年に「移民の森・千本林」造林事業も開始した。当時、開拓先亡者は740人だったが、昨年には820余人を数えた。
同森造林委員長だった坂口陞さんは、入植百周年を見すえた事業として考え、その時までに1千柱の先亡者になることを予想し、それを慰霊する森として構想している。
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その森のすぐ横に、トメアスー文協が経営する日系学校(Escola Nikkei de Tome-acu、武田タケコ・ダッシ校長)がある。02年1月に開校され、日英ポ語の3言語教育に取り組んでいる。
45人から始まり、現在は123人もの生徒がいる。日系生徒は約半分で、郡唯一の私立校だ。海谷英雄文協会長は「教育の質に重点を置きベレンから先生に来てもらっている」という。学生寮を改修した建物で10教室、教師は16人。小学校から高校まである。
海谷会長は「ベレンまで出すと一人1500レアルかかる。ここでやれば400レアルですむ。何よりも親と一緒に生活できる」と創立した理由を説明する。
思春期に町に出すと感化されやすく、日本語に興味を失い、トメアスーに戻ってこなくなる可能性が高くなる傾向があるという。「将来的には大学まで作って、後継者がここに定着してくれるようにしたい」。
それとは別に日本語学校も運営する。男子20人、女子36人が学ぶ。先生は4人で、週2回午後1時から5時まで。日本語検定試験では2級合格者も出している。
日本語学校では日本文化の継承に力を入れており、ここが主催して年に一度、日系学校の生徒と一緒に運動会も盛大に行っている。
海谷会長は「次の世代を育てることが我々の最大の使命です」と日系学校と日本語学校の連携に期待する。この二つが合わさってアマゾン版〃日伯学園〃構想といえる役割を果たしている。
今回の80周年では日系学校の改修工事が行われた。未来への投資だ。
現在トメアスーには約250日系家族が住むが、うち文協会員は200家族を誇る。「一世は全員入っている」(海谷会長)という結束から、過去への敬意と未来への投資が生まれている。(続く、深沢正雪記者)
写真=1980年代に盟友の千葉三郎氏らの墓参りをする岸信介元首相(中央、トメアスー文協提供)