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農薬信奉から無農薬へ=人文研=「農業と食、健康」=続木善夫さん半生語る

ニッケイ新聞 2009年10月15日付け

 「人生40歳で真っ二つ。農薬信奉から無農薬へ」――。農薬会社社長から転身、ブラジル有機農法の先駆者として知られる続木善夫氏(79、大阪)が、講演会「農業と食、健康を考える」(サンパウロ人文科学研究所研究例会、田中洋典所長)で自身の人生を辿りながら、有機農法で生きるとは何かを語った。9月17日文協ビル会議室で行われ、集まった15人は熱心に聞き入った。何故40年も前に無農薬の道へと進むことになったのか、有機農業の現状とは――。

 続木さんは大阪府立農業専門学校(現大阪府立大学)を卒業後、1953年8月に呼び寄せ来伯した。プレジデンテ・プルデンテに入植し、コチア産業組合で働く。
 「有名研究所すら原因不明とした落花生の病気を『虫だ』と解明、農薬を使って完全に防いだ」ことがきっかけで、コチアの営農指導者として活動を始めた。「農薬信奉」の始まりだった。
 土日も休む暇なく、奥地の日本人会や文協を講演して回り、当時の下元健吉専務理事に、「『勝ち組のところばかり行くから困る。組合員が増えるからどんどん行け』と逆にけしかけられた」と笑ってエピソードを振り返る。
 農薬販売会社勤務を経て農薬会社を設立するも、70年代前半に「農薬では害虫が駆除できなくなってくると同時に、農薬はひどいものと知っていたから、野菜や果物を食べずビタミン・ミネラル不足で体がガタガタになっていた」と告白。
 4年間、野菜と果物を摂取しないと人間はどうなるかを身を持って体験し、農薬の限界を知った続木氏は、11チェーン店あった自社での農薬販売中止を決めたという。
 どうしたら農薬なしで作れるか―。「誰もやっていないから実験しながら始めるしかなかった」と淡々と語るが、草刈り機を発明・製造し、3年で120軒の顧客を獲得するまでに農法を確立。80年代には全伯の識者を集めて初の有機農業協会を立上げた。
 しかし、現在でも規格取得の義務などが壁になり有機栽培者は少なく、「フェイラなどではまず手に入らない。セアザでも1軒程度です」と苦い表情を浮かべる。
 「もう一度、無農薬組織を作りたい」と語る続木氏は、現在もコチア市にある自身の農場で栽培・販売を行い、他の農家と一緒になって有機栽培見学を企画するほか、後継者育成に力を入れている。
 「自然の法則に逆らわない」が唯一の栽培法則だという。「虫のえさは植物の中のアミノ酸。それをタンパク質に変えてしまえば虫がよらない」と説明し、朝採ってきたばかりのレタスやニンジンを試食した参加者は、「新鮮で美味しい。全く虫に食われてないなんて」と感激の様子。
 無農薬で白菜の栽培に挑戦したことがある辻哲三さんは、「中がスポンジみたいになっちゃったんだけどなぁ」と感心していた。