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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【アマパー編】=《1》=元グアマ移民、三島利幸さん=巡り巡ってマカパーへ=「暑さ除けば、いい所」

ニッケイ新聞 2009年10月27日付け

 赤道直下にあるアマパー州(州都マカパー)。アマゾン河口に浮かぶマラジョー島を挟んだベレンの対岸にあり、1988年に連邦直轄領から州に昇格した人口60万の小さな州だ。1950年代にマタピー、カンポグランデ、ファゼンジーニャ、マザゴンの4カ所に日本移民が入植したが、ほとんどが数年内に脱耕した。現在、同州には約80の日系家族が在住している。(堀江剛史記者)

 「今日はまだ暑くない方だよ」。笑顔で話す従業員の言葉を信じ、冷房の効いたホテルを出た。 直射日光が頭皮を刺す。摂氏38度。一気に汗が噴き出す。早くも5分後には、頭が朦朧(もうろう)としてきたので日陰に入り、ひと休憩。
 汗をふきつつ、目の前にあった食堂にふと目を遣ると、何故か日本人形が幾つか飾られている。
 ちょうど出てきたブラジル人女性に訳を聞くと、「私のマリードは日本人なのよ。今いるからちょっと待ってて」とひっこんだ。
 店の奥にある自宅から出てきたのは、三島利幸さん(68、熊本)。
 「あなた日本の日本人? 珍しいねえ~。アマゾンに来たんだから、クプアスーのソルベッチでも食べなさい」と隣の店の冷凍庫から、一本取り出してくれる。
 椅子を勧められ、店の前で始まった雑談が取材となった。74年からマカパー在住だが、元々はグアマに移住した。
 「父(邦夫)が満州帰りでね。寒いところは嫌だってことでね」。1957年、家族7人でぶらじる丸に乗り込んだ。
 同移住地は水害で農作物どころか、住居までがなぎたおされ、アマゾンの移住地のなかでも過酷な環境だったことで有名だ。
 「5年以内に半分がアカラの方に行きましたよ。川から250メートルのヴァルゼア(低湿地帯)に入った人は苦労したけど、私の家族は高台だったから、そんなでもなかったんですよ」
 ピメンタ(胡椒)を800本ほど植え、結構儲かったという。しかし、「次男坊の身の軽さ」で一人、59年にグアマを出て、ピメンタの黄金時代を迎えていたトメアスーで2年ほど雇用農として働き、出聖。
 コンデ街のペンソンに住みながら、中央市場の近くにあったレストラン「トキワ」で働いた。その頃、二世のノロエステ出身の小野ルシアさんと結婚するも、体調を崩し、入退院を繰り返した。
 調子のいい時は、レストラン「こけし」が請け負う結婚式の皿洗い―。
 「その頃は、サンパウロもトメアスーに負けないくらい、いい時代だったですよ。賄い付きのペンソン代が月1コントだけど、月2、3日だけ働いて、月5、6コントもらえた。だからよく旅行もしましたね」
 一時はベレンに移り、夫婦でキタンダを経営、レストラン「みやこ」で働いた。
 再度、サンパウロに戻って間もなく、14年間連れ添ったルシアさんが42歳の若さで亡くなる。脳溢血だった。11歳、10歳の二人の子供が残された。
 ベレンに戻ろうとしたが、「長男が『ベレンは教育が遅れているから行きたくない』って言い張ってね。妻もアマゾンの生活は肌に合わなかったみたいだけど・・・」。子供たちはルシアさんの兄弟が引取り、三島さんは一人、家族がまだ残っていたグアマへ戻る。
 その後、「みやこ」時代の知り合いから、「マカパーに行かないか?」と声を掛けられる。
 州都マカパー市に隣接するサンタナ市の沖、サンタナ島にあったトーメンの製材所での仕事だった。レストランでの経験を買われ、従業員の食堂で調理師として働いた。
 75年にイヴォネッチさん(63)と再婚、90年からは日本へデカセギに。10年働いたが、人員整理とともに会社を辞し、アマパーに戻る。 現在住むイヴォネッチさんの実家で日本食も出すレストランをやっていたが、「高血圧で何回も倒れてね。医者に仕事をするなって言われてね…それからは居候みたいなものですよ」
 現在は息子優さん(27)との3人暮らし。前妻との間の二人の子供とは音信不通だという。
 「おそらく日本にいるんじゃないかな。向こうからも、こちらからも連絡しないしね」と淡々と話す。
 雨季になると、雨に打たれたマンゴーが降ってくるという自宅前の通りを眺めながら、「アマパーはベレンと比べて、のんびりしていいですよ。暑いのさえ我慢したらね」。そう静かに笑った。

写真=「のんびりしていいところですよ」とマカパーの生活ぶりを話す三島利幸さんと妻イヴォネッチさん